見出し画像

【駄文】夜間大学に入学するまでの話

 私のAmazonの著者プロフィールでは「横浜税関に勤務」、「神奈川大学(夜間)」に進学、と記載しています。夜間の学部には「第二」という名前がつくルールでして、私の正式な専攻は「第二法学部第二法律学科」という名称でした。
 この投稿は、こちらのクリエイターさんにインスパイアして、書き出したものです。需要は無いと思いますが、お二人への感謝に代えて綴ります。

 一般的には夜学と言うと、「勤労学生」、「苦学生」というイメージで見られるのですが、正直なところ「苦」と思うことはなく、「楽」とは感じないものの「楽しい」、「楽学生」でした。「喉元過ぎれば」ということではなく、今のnoteにも似て「好きなことをしている」という喜びの方が勝っていたと思います。

 我が家は父が定職に着いておらず、チンピラと日雇い人夫の間みたいな存在で貧乏でしたので、親からはハッキリと「大学進学は諦めろ」と通告されていました。
 しかし、一流では無いものの「98%が進学する進学校」という高校に進学していましたので、周囲の者がほぼ全員進学する状況ということ、また、父は中卒であることを僻み、周囲を妬み、飲んでは同じことを愚痴る日々でしたので、「父のようにはなりたくない」という気持ちが強く有り、大学進学の道を夢見ていました。
 一方、母親からは「公務員という定職について欲しい」ということを、子どもの頃から言われており、呪いのような縛を受けておりました。ただ、苦労が多い母親の心情を考えると「公務員になって喜ばせたい」という気持ちも否定できない状況でした。

 このような背景があり、大学進学だけであれば「新聞奨学生」という制度の活用も考えたのですが、国家公務員三種や自衛隊などの公務員試験を受け、公務員として就職してから、夜間大学とか通信制大学を受験しようと考えていました。
 まずは、公務員として就職をして母を安心させたい、喜ばせたい。ということを優先、その後に自分の夢である大学進学をする、と整理したのです。

 当時の国家公務員試験の仕組みは「共通の筆記試験」「共通の面接試験」に合格すると「公務員採用候補者」となり、その後「各行政機関が実施する試験(主に面接)」を受験し、採用の可否が決まるということでした。建前上は「採用候補者」となったら、「自分で行きたい行政機関に採用試験の有無を確認して、各自試験を受けてください」という制度と聞かされました。
 結構、乱暴というか「放置」の制度と感じた覚えがあります。
 ところが実態は、各行政機関の人事担当者に「採用候補者名簿」が送付されるようで、いくつかの行政機関から電話で、「採用試験(面接)を行いますが、受験する気はありますか。あるなら資料を送ります」という連絡がありまして、試験の日程が近く、仙台が試験会場だった建設省(当時)と横浜税関を受験したのです。
 ちなみに横浜税関がどこにあり、どんな仕事をしているかは全く知らないままで、採用試験の案内に同封されていた資料を見て、初めてその存在を認識しました。
 ところが、試験(面接)のやり取りの中で「夜間大学への進学を希望している」旨を話したところ、
「志望している大学もあるだろうけど、神奈川大学なら横浜税関からの職場推薦制度もあるし、進学している先輩もいますよ」
という話を聞かされ、
「是非、採用してください。神奈川大学に行きたいです」
という心境に至りました。

 その後も、多少のすったもんだがありましたが、横浜税関採用→8ケ月の研修(東京都 市ヶ谷)を経て、職場推薦を受けて、面接と作文という選考試験で神奈川大学(夜間)に合格するに至りました。
 ハッキリ言いましょう。「ほとんど運任せです」、「行き当たりばったり」です。高校三年の12月まで、自分が横浜税関に勤務することも、神奈川大学に進学することも、全く考えていませんでした。
 自衛隊に行くつもりでした。

 ということで、勤労学生又は苦学生のような状況になりましたが、「母の望みを叶えつつ、自分の夢も叶え、父のようにならなかった」ことについての満足感が大きかったのです。
 しかもですねぇ、国家公務員ということで、公務員宿舎の独身寮(食事有)がありましたので、家賃が安く、食事や風呂の負担が少ない、そして安定した給与、休暇制度を始めとした福利厚生がホワイト、ということでしたので、アルバイトと自炊で大学進学をするよりも、安定した生活ができていたような気がします。

 繰り返しになりますが「好きなこと、やりたいことをしている」という喜びが強く、勤労学生ではありましたが、苦学生という気持ちはなく、嬉しく楽しんでいました。夜間大学出身ということで「苦労しましたね」ということを言われると違和感なのです。
 ただ、横浜で生活しているうちに「自分の根が無い場所で働くよりも、故郷の役に立ちたい」という新しい夢が生まれ、大学卒業を機に、地元の市役所に転職したということになります。

 横浜税関という経験が無ければ、ここまで「故郷の役に立ちたい」という思いを抱くことは無かった気がします。ちなみに、国家公務員試験の模擬試験は「D判定」でしたが、よく合格したものです。横浜税関のことも知らないのに、よく合格したものです。そして、現在勤務する市役所もよく合格したものです。
 そして、こういう特殊な経験が「挑戦すれば成功する可能性は0ではない」という考えに繋がり、「投稿すれば読まれる可能性は0ではない」「発刊すれば売れる可能性は0ではない」というnoteやkindle作家としての活動に繋がっているのかも知れません。

 こんな話に需要があるかわかりませんが、お二人の記事にインスパイアして、思い出話を綴ってみました。しかもですねぇ、私の画面ではお二人の記事が連続で表示されるので、心を掴まれるのですよ。

画像1


 「noteは魔窟か!」という想いもありますが、まだまだ楽しみたいと思います。

サポート、kindleのロイヤリティは、地元のNPO法人「しんぐるぺあれんつふぉーらむ福島」さんに寄付しています。 また2023年3月からは、大阪のNPO法人「ハッピーマム」さんへのサポート費用としています。  皆さまからの善意は、子どもたちの未来に託します、感謝します。