キリスト教はヨーロッパの宗教ではないという話

 キリスト教はヨーロッパの宗教だという話はよく聴く……が、これはかなり西ヨーロッパ以外のキリスト教徒たちにとっては迷惑な話ではある。
 一般的な理解では、ローマ皇帝のテオドシウスが380年二月二十八日、法令によりローマを国教化して、ヨーロッパにキリスト教が広まる端緒を創ったとされる。
 だが実は、それより百年ほど前にアルメニア王国がすでにキリスト教を国教化していた。そしてそのために東の国境を接するササン朝と戦争になっている。アフリカでもエチオピアがある。これらのキリスト教は、互いに別の宗教というべきほどの違いがある。聖書として認める文書の違いや、聖歌の種類、儀式の方法まで……。これを同じ宗教として論じるのは無理があるし暴挙でしかない。

 なぜヨーロッパ(それも西欧)のキリスト教ばかりを話す必要があるのだ。たとえば、ネストリウス派が中国にまで逃れて『景教』と呼ばれたのは歴史教科書にもよく載っていることだし、まずキリスト教が最初に広まったのは、イエスが住んでいたユダヤの土地においてのことなのだから。

 ローマのカトリックがヨーロッパで一番の教会になったのは歴史的な成り行きの結果だ。
 ユダヤ戦争でエルサレムが陥落し、破壊された結果、ユダヤでのキリスト教は死に絶えてしまった。その後はエジプトやギリシアで信者数が増えて行ったのである。特にこのエジプトではコプトという名前で独自の教会がある。シリアにも独自の教会がある。
 なぜこうした分派が生き残り続けたかと言うと、イスラーム統治下で保護されたからだ。イスラームでは異教徒と共存することを前提に社会を構築するシステムがクルアーンによってすでに定まっていたから、少なくとも社会秩序が保たれている間は、無造作に迫害が起きることはなかった(中世にペストがエジプトで広がり、八つ当たりされたキリスト教徒の多くがイスラームの改宗を余儀なくされたという事例はあるが……)。
 一方でローマ教会は政治権力とも絡んで異端を排除してしまった。だからルターが宗教改革を始めるまで、長らく西欧はカトリック一色だった。プロテスタントの誕生は現代国際社会の成立において大変大きな意味を持っているし、それを理解することは無駄ではない。しかしキリスト教その物、今のキリスト教が形成されてきた全体の歴史の長さから観ると、プロテスタントという宗派はさほど主要な物ではない。僕はそれより現在知られているキリスト教がどう生まれ、パウロが伝道を始めた頃、まだローマにとっては異教最初あったであろう多様な見解を収束したか、その過程を気にする必要もあるんじゃないかと。

 何よりこうしたローマ・カトリック笠下のキリスト教徒は東の同胞に対して基本無頓着だ。1099年七月、エルサレムに軍勢を率いて『巡礼』(当時はcrusade『十字軍』という言葉は存在していない)した時、容赦なく彼らは教会を襲撃して貴重な宝物を奪った。のみならず正教会の司祭を追放して現地のキリスト教をカトリック一色にしてしまった。
 イタリアのすぐ東にあったビザンツ帝国の民もキリスト教徒だったが、彼らは実際西欧のキリスト教徒たちを野蛮だと考えていたし、むしろムスリムの方が話が分かると考えていたほどである。

 近代になるとヨーロッパ列強が現地の伝統的なキリスト教を奉じる人々をカトリックに改宗させようとしたという事例もある。そして実際、改宗した人物もある。近代中東においては、少数派であるキリスト教徒の方が多数派ムスリムよりも早めに西欧的な文化を学び、その流れに適応しようとしていた。ここにも、『強者』ではないキリスト教徒たちが置かれた状況の世知辛さがある。
 ある本には「ヨーロッパがキリスト教化したのではなく、キリスト教がヨーロッパ化した」とあるが、実に的を得た表現だ。歴史上起きてきた流血の原因をキリスト教に帰するのは妥当ではない。宗教自体はさほど問題ではない。地理的環境であり、当時の人間の知的水準であり、戦争技術の向上にある。こういう所から考察しなくちゃいけない。

 日本でもヨーロッパ中心的な歴史の考え方に影響が強く残っている。
 だから僕はこういう少数の『強者』ではないキリスト教についてもよく知るべきだと思うし、無知でいたくないのだ。

 補足

 キリスト教に多くの宗派があるのは周知の事実だ。だがその全てがキリスト教という名前を掲げているわけではない。最近の新興宗教が、キリスト教に影響を受けていたり、あるいはキリスト教という名前であっても中身が他の多くの宗派とは異なる見解を打ちだしている団体もある。
 近年になって発足したケルト系キリスト教(Celtic Christianity)というものがある。名目としては、古代のアイルランドやウェールズに伝わったキリスト教の復活をかかげているらしい。

https://en.wikipedia.org/wiki/Celtic_Christianity

 これは新異教主義(Neo-Paganism)と信仰の復興との間の境目にある運動と言える。キリスト教なのか、そうでないのか曖昧なものもある。
 さらに近代には、理神論という思想も起こった。これは、神は最初に宇宙だけ創造したが、宇宙の運行自体は逆に言えば、伝統的なキリスト教の立場では我々の一挙手一投足は神の定めのもとにあるということであり、一種の運命論である。