中国古典に見る政治に対する関連性の高さ

 中国古典は政治に対する関連性が高いと言われる。
 文学を継承してきた層や社会体制にしてもそうだが、やはり君主や王朝の理想なり統治理論なりがそこには投影されている。そして、その時折の詩人の社会的地位を鑑みると、やはり国家の一進一退を至近で眺める場所にいる。
 そういう知識人が以て過去を知り、未来を考えていくよすがとした書物は、もうみんなご存知だろう。

 もちろん、『詩経』のように、遥か古い時代には恋愛や悲哀といた感情を素朴に歌うのが常だった。時代が下ると、『遊仙窟』みたいに性愛をテーマにした物語―唐代にはそういう小説がたくさん記された――がないわけではない。それでも学校で学んだり、話題になったりする本は、たいてい……そういうものだ。
 漢詩を読むと、僕は古人がどれほど現実や未来を見すえていたか分かる。自分がどれほどそれを悩む程の心構えがないか、ということにも気づいてしまう。

 漢文訓読とは、本当に先人もいみじいものを発明したと思うよ。ごく短い言葉のうちに、濃い意味を込めて撃ちだしてくれるのだから。そしてその文句が今も諺として人々の口に乗っている。蘇軾が陶淵明の詩を「枯れているようで脂ぎってる」と評したのは実に奥の深い言葉ではないのか、と思うのである。

 ふと目の前のこまごまとした1コマを眺めていても、どこかで社会の厳しさがいずれにしても真面目な部分ではいつもほのめかしている、
 隠棲者の世間への対立。どこまで立っても他人の眼を気にしているような雰囲気がある。ここが僕にとって少し気に乗らないというか……古い時代の文物だから僕の考えと照らし合わせられないのは当然かもしれないが……。

 それに比べると日本文学はあまり政治に対する関心が薄いと言われるが、どうか。伊勢物語の主人公とされる在原業平は、当時繁栄を極めていた藤原家との確執に常に見舞われていた。後世の注釈に、その関係に対する注意書きが入る位なのだ。それにはっきり人間のきな臭い立ち回りを描いた歴史物語だってある。
 軍記物語とか? 多分試験問題で出てくる分野が偏っているからかもしれないな。徒然草第二段には「衣冠より馬・車に」(第2段)九条の『遺誡』という書物が引用されている。大宝律令などの法律とか……そう言った少し外れた物に焦点を当てるべきなのかもしれない。

 中国の文学は、日本やインドとは違って虚無主義に対する感性が希薄というか……とにかく、目の前のことを良くしようという理想主義を感じる。この世が悲惨であるならばそれを嘆いたりしてる場合ではない。良くしなきゃならない。そのためには君主なり朝廷なりに訴えなければならない。
 漢詩には自然の美しさを詠むものが多いが、ずっと昔からそうだったわけではない。古い漢詩だと、自然を、道徳的な訓戒の道具としてしか見ていなかったそうだ。そういう所にも現実的な特徴がうかがえる。

(どんな歌でもあれ、自然を詠むのは、現代で一番難しいことではないだろうか。もう美しい自然なんてこの世の中では探し求めるすべもないんだから。)

 現実的で、来世とか神の采配なんて非現実な物には目もくれない。やはりそこがいい。僕も、現実だけを見て生きることにしよう。この世を越えたものには目もくれないでいて。