仮面ライダーアギトを見終えて

 仮面ライダーアギト観終わった。本当に良かった。
 人間が人間ならざるものになってしまった悲劇を、どう乗越えていくかというテーマに感動せずにはいられなかった。
 やはりこれが一つの神話なのだ。幾多の登場人物が現れて目まぐるしく消えて行き、巻起こる事件に翻弄されていく。神秘的な事象がどんどん取捨されていく現代において、突然理解しがたい試練に見舞われた人間がどのように反応し、どのようにその本性を表していくかこの物語は様々な例をあげて教えてくれる。

『アギト』の世界において、人間ほどか弱い存在はないように思う。
 神と天使の衝突という、人間が把握するにはあまりにも壮大な事実。作中の人間のほとんどは、結局敵が何だったのか、アギトとは何なのか知らずに終わっている。ただ世界の真実に限らず、登場人物たちがいつその事実に気づいているのか、誰が分かっていて分かっていないのかにかなり気を遣っている。
『知る』という概念が、非常に追及されているのだ。何もかも知っているような風でいられるのは、我々が視聴者だからだ。もしかしたら我々がいるこの世界だって、予想することもできない真実によって形づくられ、動かされているかもしれないのに。
 聖書において、神の姿を直接見た者は死ぬと書かれている。ヤコブが神(あるいは天使とも)と争った時、「私は神の顔を見ながら生きている」と言ったように、超越的な存在と対峙した時、人間はその無力さに絶望し、あるいは錯乱しそうになる。あかつき号でその乗客たちが味わった絶望は想像を絶するものがある。その経験の壮絶さを、まさにこのヤコブの言葉が代弁している。あかつき号事件は決して人類には明かされない世界の秘密の、ごくわずかな片鱗を暴露しようとしたのだ。これも聖書を引けば、ヨハネの黙示録などは、いつ訪れるかも分からない近い未来を暴露したものだろう。
 だがその割には、作中において天使はしばしばアギトや、人間の科学力の結晶たるG3システムに倒される。神に抗うことのできる人間の可能性も描いてくれているのが『アギト』の魅力。その点では、良くも悪くも冒涜的な話だ。

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 仮面ライダーの本来のコンセプトをアギトはよく示してくれている。
 仮面ライダーは最初悪の組織に改造人間にされ、本来悪の手先として用いられるはずだったのが自由のために戦っていた。アギトも、本来人間でありながら人間ではない何かであるという点が、改造人間と言える。
 初代で、本郷猛が改造された直後のやりとりに劣らず、翔一があかつき号で初めてアギトに変身した時のあの異様さは、場面の情景といい音楽といい、非常におどろおどろしい演出に仕上がっている。それは変身というよりは憑依に近い。
 人間の自由意志に関わらず、体の上に無機質なアギトの姿が浮かび上がるその様子は、見るものに恐怖や嫌悪感をかき立てずにはいない。いきなり身に余る力を与えられて喜ぶ人間はいないのに。そして現に、アギトに覚醒した者のほとんどは暴走するか、精神に異常をきたした。雪菜や国枝先生の子息のように命を絶ってしまったものもいる。木野はアギトの力をうまく用いたが、一時的に良心や思いやりを捨ててしまっていた。
 アギトの力をもっとも制御していた翔一ですら最初暴走しかけた。どれだけ天使の力が人間に余るものか分かろうものだ。もし僕がアギトに覚醒したら――と無邪気な子供だったら夢想せずにはいられないが、実際には多分彼らのようになってしまうに違いない。ヒーローはあこがれるものではないのだ。
 そもそもアギトの力は闇の力と光の力の勝手な争いによってもたらされた物。
 人間の進化と言えば聞こえはいいが、遥かな古代の、それも超自然的な存在同士の因縁に巻きこまれた一方的な被害の結果に過ぎない。しかも神が送りこむアンノウンによって、人間は理不尽にも覚醒した力を摘み取られていくのだ。
 ストーリーが進めば進む程明らかになるように、アギトに覚醒した人間が邪悪ではない保証はない。
 アギトの力その物には善も悪もないが、人類は力を善いようにも悪いようにも使う。
 ひょっとして、貴志祐介の『新世界より』は相当『アギト』の影響を受けているのではないだろうか。超能力を持ってしまった人類が自分たちをがんじがらめに束縛してとりあえずの平和を保っている光景は、『アギト』のあるかもしれない未来の一つを暗示しているようでもある。