全ての人がやりがいを見いだせる仕事に就いたとき、世界は満たされるのか

個人のやりがいやモチベーションというのはある程度大切だ。しかし仕事においてそれが主軸として「やらない理由」にされるのは色々と困る。特に最近は、僕の私の仕事やりがいあります!こんなやりがいのある仕事って素晴らしいですよね!みたいないわゆるきらきらした話を見ることが多くなってきた。もちろん自分の事として考えた場合はそうであって欲しいと感じるのだが、実際にそうでない場合もいっぱいあるし、それが必要であるわけでもないと思うのである。

そこでふと考えたのだが、世界の全ての人が全く妥協なくやりがいを感じられる仕事につけたとすると、果して世界で必要とされる仕事は全て埋まるのだろうか。どう考えても埋まらないのではないだろうか。例えば自分のマンションでは管理人さんが毎日ゴミ捨て場と廊下等を掃除してくれているが、夢いっぱいの若者がこれを一生の仕事としてやりがいを感じて就職するだろうか。もちろん否定はしきれないが、かなり少数ではないだろうか。駅のトイレ掃除なんかはどうだろうか。トイレ掃除好きは聞かないでもないが、世界のトイレ掃除需要を満たせるとはとても思えないのである。

一応、フォローしておくと私は自分の生活圏でインフラや環境を整備してくれる人には強く感謝している。駅のトイレなのに殆ど臭いのしないところ等は尊敬の念すら感じていることは理解してもらいたい(比較的新しいにも関わらず臭いトイレもあることがよりその気持ちを強くしている)。上の例は世間一般にあまりやりたいと思われていない仕事の例としてだしているだけで、その仕事にやりがいを持っている人がいることも事実である。

逆に人気の職業はどうだろうか。かなり多くの人が音楽家や小説家や漫画家なんかになりたいのではないだろうか。昨今のタイトル数の多さを見ればレベルや稼ぎはどうあれ、やりがいを感じてその世界に身を投じる人は後を絶たないのだろう。やはり人気商売というのはあこがれの的である。そういう状況を考えると一部の仕事であぶれる人が出てくるのは火を見るよりも明らかだ。

計算しやすそうなので野球選手で考えると毎年甲子園には400人以上の学生が出ているわけである。甲子園に出るくらいの学生だから野球にやりがいを持っている人も多いのは当然だろう。少な目に半分の200人がやりがいを持っていたとすると毎年プロ野球には200人のプロ選手が「増えて」行くわけである。全員がやりがいのある仕事に就ける世界なので、現役時代を15年とすると3000人がプロ野球で活躍してしまうわけである。

スタメンとローテーションで1チーム30とすると100チームの大規模リーグである。ホームグラウンドも100ヶ所で都道府県より多い。球場は3万人が入れるとするとホームの試合に毎回来るサポーターは各チーム2万は必要である。それだけでも人口の半分の6000万は野球のサポーターである。他のスポーツや娯楽についても似たような計算ができるだろう。どう考えても計算が成り立たないことが判る。

つまりやりがいのある仕事、モチベーションの持てる仕事に就くことが大事という発想は間違っているのだ。大切なことは、仕事も人生も総合的に考えて選択することだ。それは、今自分の選べる仕事に就き、そこを最初の立ち位置としてその時々で手の届くより良い生き方を検討し選択してゆくことである。その結果やりがいの感じられない仕事に就くことは、懸命にその仕事をこなしているのであれば、なんら恥ずかしいことではない。

もちろん自分にとってやりがいのある仕事で生きていける実力が将来付くことが望めるなら、そのルートに乗ることは悪くない。しかし他の人がそんな素敵な生き方をしているなら自分も挑戦しなくちゃ!という生き方は全くする必要はないのである。ということがやりがいに対して言いたかったと纏まったのでここに記す。