全ての思想、哲学、宗教は誤っているという話

人間は真理の追究として思想を持ち、哲学を究めんとし、宗教を信仰してきた。真理とは読んで字のごとく「まこと」の「ことわり」である。それはつまり普遍の原理、あるいは間違いの無い因果という事もできる。(正直思想は真理の追究ではない気もしているのだが一緒くたに扱っておく)

私が若い時、青臭い私は世界にそういうモノがあるのではなかろうかと考えて色々な本を読んでいたりしたのだが、30歳を超えた頃から何だかそうではない様に思えて非常にモヤモヤしていた。

正直今となっては私自身何を求めていたのか定かではない。きっと定かではないが見ればわかる様な真理が世界のどこかに存在しているのだ、とそう思っていたのかもしれない。

そういうモノを提示せんとする書物はご立派な言葉で人の心をつかむ話をするし、私だって一人の人間としてそういうご立派な話に、そうだよね、と思う事度々という事は認めざるを得ない。

だがしかし、そのそうだよね、と思ったものが真理かと言われれば、それはそうだと良いよね、そうなる様に努力したいよね、という事なのであってそれが本当の事だよね、人間って本当はそうなんだよね、という話では無かったのである。

それからずっとこの真理というものとそうでは無い現実というもののギャップについて考え続けていたのだが、ある日私は一つの結論に達した。

それは言語によって構築された理論は全て誤っている(仮説)というものである。

そして、よしnoteに備忘録しとこ、となった時に更に私は困った。それが本当だとすると私の書く文章は言語によって構築されるので誤っているのである。誤っているもので誤っているものは指摘できない(それすら確信がない)。

私はそこで更に足踏みをすることになった。いや今も足踏みしている。

余談だが、こんな話をしているとゲーテルの不完全性定理の話とかを持ち出す人が出てきそうだが、あれは数学的なある領域で証明された事で、哲学的な話や宗教的な話では使えないらしい。私も詳しくは理解していないが、あれは算術可能な記述が含まれているものに対して言える事らしい。まぁ数学方面で無い方々は無知をさらけ出す事になるので引用は控えた方が良いだろう。

なぜ言語によって構築された理論は誤っているのか。これは憶測だが、言語には公理的な基礎が無く、言語そのものに揺らぎがあるからじゃないかと思っている。

例えば哲学では自由意志は存在するのかしないのか、という議論が存在するが、そもそも哲学において何を持って自由意志と定義しているのか(公理)が明確にされている所を見たことが無い。それにも関わらず自由意志があるとかないとか議論を交わしている。

こんな状態で「論理的」に話を作ってもそれが誤っているのは当然と言える。彼らは小難しく理屈(っぽい何か)を並べ立ててるが実は要約すると俺は自由意志があると信じてるぜ!俺は信じないね!と言い合っているだけなのである。

とは言え別に私の与太話も真理を示しているとは示せない。だが更に考えると思想、哲学、宗教は間違えている、という事は簡単に示す事ができる。なのでそれについて書けば良いと思った次第である。

その誤りを指摘するのは簡単である。その提示される文章に対して例外が一つでも存在していればその文章は誤りがある、というただそれだけの話である。

特にある程度ボリュームのある文章で構成されているものであればより指摘がしやすい。逆にある宗教が、神は存在する、だけで終わっているならその誤りを指摘するのは少し難しい。単なる悪魔の証明だからである。

例えば誰もが公平に生きるべきであり、それが人間本来の住むべき世界である、という思想があって誰もがそうだそうだという話があったとする。しかしこれは真理ではない。なぜなら不公平が存在しているから。それはただ単においらはそういった世界を目指してますというだけで「べき世界」ではない。

例えば誰もが月を見ていないとき、月は存在しないという哲学者が居るとする。しかし、例えば世界中の誰も月を見ていなくてもカメラで撮影できたなら、その月は存在しているとも言える。誰も見ていないという状況が厳密に実施されたにも関わらずカメラで撮影する事ができたなら、それは存在しないとは言い切れない(存在すると言えないとしても)。つまりその哲学は真理ではない。ただ単に僕はそう考えてま~す、というだけの話である。

例えばある教典において全知全能な神が人の不信仰を許さないとしたとき、不信仰者が存在した時点でその神はこの世界において全知全能な存在ではなくこの世界の理に従属している存在にすぎないのである。つまりその宗教は真理ではない。

※因みにこんな話をその話を信じている人にしたところでその人たちの目が覚める事は保証されないので悪しからずである。

さて、そういった話をしている人達はその人達なりに世界を良くしようと思ってそういった誤った話をしているわけで別にそれ自体が責められるべき行為と言うわけではない。

だが、そういったものの違いによって諍いが起きる事もまた事実で時には大きな害となる事もある。

つまるところ人間の思考というものはある環境において非常にフィットする考え方がある、というだけでそれは環境に合わせて変えていかなければいけないものである、という事なのだと思う。

なのでできるだけ多くの人が思想、哲学、宗教は間違えているという認識を持って他の人と接すれば別にその手の違いで怒る事もないんじゃないかなぁと思う次第である。まぁ間違えたモノを信じるというのも変な話だが(間違えているのだから仕方がない)。

ここまで書いて来て何とも纏まりの無い話だとは自覚しているが、さりとて上手い落ちが付けられるわけでもないのでこの半端な文章でアップしたいと思う。

なに、上手くても下手でもどうせ誤ってるんだ。気にすることは無い。