資本主義の次のステージはあり得るか

ふと前回の記事を書いていて、資本主義が崩壊することはあるだろうか、と考えてみた。結論からすると、無いだろう。しかし、今の形からいくらか変わった形態になることは考えられる。それを資本主義と呼ばない人も出てくるかもしれないが、基本は資本主義だ。

世の中には資本主義の崩壊やポスト資本主義社会等の題材の本がそれなりの数あるのだが、一体どんな世界が実現するのかとワクワクして読んでみても何の実効性もない話が書いてあることばかりである。概ねこの手の書き手は人間自身の進歩に幻想を見すぎのきらいがある。人がああでなきゃいけないとかこんな社会でないといけない等と、人類がそんなに理性的で思慮深く、配慮可能になれるのであれば資本主義でだって上手くやっていける。

40年も前であれば共産主義あるいは社会主義がそういった位置づけだったようだが、結果は誰もが知る通りである。その当時に生きていればきっと夢はあったのだろう。しかし結局のところ人は自分よりできない人を許容できず、死ぬまで変わらない生活に頑張ることができず、誰かよりも良い生活がしたいという願望を抑えきれなかったのである。

人は自分の気持ちをそんなにうまくコントロールできない。いや、できる人ももちろんいるが、全人類をそんな出来た人に育てることはできない。結局システムはそういった抑えきれない欲を加味した上で構築せざるを得ないということである。そういった意味では今の社会システムは良くできている。民主主義同様、最悪の中の最良のシステムと言ったところだろうか。

さて、社会システムを構築するにあたって今や絶対に避けられないことがある。それはモノの交換においてそれぞれの価値を決めることである。資本主義はもちろん、社会主義においてもこれを取り除くことはできなかった。人類が今から物々交換に戻ることは到底考えられない。

もちろん厄災によりお金に価値がなくなれば、やむを得ずそういう行為をすることもあるだろう。しかしその時、今のスーパーの様な業態は維持できないだろう。ほうれん草一束を一体何と交換すべきか、全ての人が同じものを持ってくるわけではないので、都度レジで見定めるというのはコメディな世界である。

結局そうなるとほうれん草一束であっても何らかの値を決めて、ほうれん草が欲しい人はその値に応じた何かを提供する必要が出てくるわけである。その値は結局のところ名前を変えたお金である。

お金がある以上、そこには偏りが生じる。ある程度ルールで格差を抑えることはできるが、文明発展のモチベーションを殺さないさじ加減が必要だ。悲しいかな、成功するというモチベーションが無ければ、文明は発展しないのだ。どれだけ綺麗ごとを口にする人も、ただ社会に貢献するという誉れだけで貧しい生活を送れるわけではないし、そうでないなら見返りが必要とされているということだ。

一処では資本主義は良くない形なので人の信用をポイント化してそれをお金の代わりにすれば良いという様な話もある様だ。しかし信用が信用ポイントという形を得たなら、それはそれでシステムとして攻略する者が現れ、結局格差社会を作り出す。詐欺師とは信用を得られるから成り立つ職業である。

世の中には寡黙に堅実に仕事をこなし、日常を黙々と過ごしたい人も居るのである。そういう人たちがただ付き合いが悪いとか、何を考えているか判らないといった理由だけで信用を得られないこともある。それならただ仕事をこなした量で計った方が性格の多様性と言う点で懐深い様に思われる。

そして、文明発展はもうここらへんでいいじゃないか、十分幸せに生きていけるよ、と言う感じの主張もある。しかし、自分はそれには賛同できない。こんな中途半端な文明で止まったら人類は環境破壊とエネルギー浪費で絶滅必至である。むしろ我々はもっと早く、より循環的な文明に発展する必要があるのである。

さらに時代を逆戻りすることを推奨する人もいる。しかし歴史的にはローマ時代ですら環境破壊が成されていたことは有名な話である。さらに今の人類の数はその当時の何十倍である。環境を考えて旧時代の生活に戻るとなると、まずは食糧問題解決のために非人道的なバトルロイヤルを開催して人の数を20分の1程に減らすところからスタートである。

果して一般的な道徳観念をもっている人でこの様な事態を望んでいる人がどれほどいるだろうか。

しかしポスト資本主義に出てくる話とリンクするような動きもあることは事実である。シェアリングエコノミーは世間に浸透してきており、ベーシックインカムは徐々に議論に活発さが出てきている。AIは今の処格差を拡大する助けになるように思われるが、使い方によってはそういった一助になることもできるだろう。

長い前置きになったので次回に今の延長上で実現しそうなより良い資本主義というものがどんな形かを想像してみたい。