生きる意義なんて探しても見つからないというはなし

私がまだ青臭い思春期の少年だったころ、私は真剣に生きる意義について悩んでいた。自分が生まれてここに存在する。そして、他の動物と違って自己存在を認識し、思考し、哲学?する。自分にはなにか生きる意義があるはずだと疑うことなく考え、その意義が見つかった時、自分は輝く人生を歩むのではなかろうかと臆面もなく考えていた。そしてその意義が見つからないことを理由に怠惰に生きていた。

子供時代は漫画や小説が大好きであった。おせっかいな誰かさんに引っ張られ、大きな流れに否応なく飲み込まれ、直面する運命の意義を見つけ、それに向けてひたむきに走ってゆく主人公を羨ましいと思っていた。何が一番羨ましいって、主人公は全く希望していないにも関わらず、そういう運命に飲み込まれ、物語となるような体験をするというところが、自堕落な自分には全くもって羨ましかったのである。典型的な中二病である。

気づけば大人になっていた。光陰矢の如しとは全く持って良く言ったものである。それなりに器用だったので、そこそこの大学を出て、会社に見事に滑り込み、そこそこ人並みの稼ぎをもらえるようになっていた。思い返せば自分より大人に感じていた主人公はそのまま同年代になり、年下になり、もはや二回りも下になっていたのである。大きくなれば自分も自然とそうなると夢想していた時代もあったが、未だにあこがれた主人公の様な生き様はできていない。当然である。

しかし年はとるもので、年をとったなりに学ぶこともあるのである。世の中には自分探しやなんとかの意義を探している人が富士山を覆うくらい溢れているが(当者調べ)、四十にもなるとそれなりに世の中を理解するようになってくるというものである。とは言っても私が人生の意義を発見する秘儀を発見したという話ではない。残念なお知らせだが未だに人生で惑って生きている(いや、他人には関係ないか)。

しかし、意義をもって生きるということはある程度理解できた様に思うのだ。もったいぶらずに端的に言えば、その人たちは自分の意義を自分で決められた人達である。誰かに決められたものではなく、自分の立ち位置と自分の能力と興味から自分の責任で、自分の意義として決めた人生を、歩む人、ということである。

私の尊敬する知人達は、昔あこがれた主人公の様な波乱万丈な生き方をしている人はいなかったし、世間でイメージされている様な華やかな人生でもない。小さなお店の店主であったり、会社の一端を担うエンジニアであったりと想像とは裏腹に意外と地味な人生である。青春真っ盛りの時に決めた人生の人もいるが四十半ばでその道を決心した人もいた。そうであっても彼らの売っているモノや作るモノには意義を感じるし、彼らの物言いやこだわりにも意義を感じるのである。

きっとその人達もぶれたこともあるだろうし、惑ったこともあっただろう。しかし、覚悟をもってその道を選び、その道に生きがいを感じる、と教えてくれたのだった。

意義ある人生とは真に自己の責任でその生き方を選ぶ覚悟を決めた人だけが歩むことのできる道である。その裏で同じように意義を持って取り組んでも、心半ばで終えざるを得なかった人もきっと居たのに違いない。どんな結末であれ、その生き方は正直羨ましいし格好いいと感じるが、結局のところのんのんと流れる社会に流されて生きる自分は、さもあらんと思いつつ、変わらぬ人生を送っている。だが、そうと知った今、自分の惑いある人生に後悔はない。