もはや現代哲学は学問の出がらしなのではないかと思っていること

最近は何やら哲学ブーム?のようで本屋で哲学と付いた本を良く見るようになった。哲学という言葉を見るたびに漠然と人の行くべき先を与えてくれる、いやむしろ世界の真理を与えてくれる素晴らしい何かを期待してしまう。少なくとも真理の断片をあるいは気づきを与えて欲しいと期待している。そして本好きの私は2年に一回くらいの周期で期待を込めて哲学の本を買うのだが、その期待はお約束の様に裏切られる。

古代において哲学は偉大な学問であったのだと思う。ソクラテスはいい年して哲学なんてやって、と周りに言われていたという話もあり、実態は判らないが世界の構造や法則、真理を探求する全てを包括していたのだから。しかし時代が進むにつれて学問は分離し始めた。最初は数学や天文学だったのだと思うが、徐々に現在の数学、物理、化学、論理学、歴史学等の形に分離、変質、融合していったわけである。

さて、分離したということは哲学からそれらのエッセンスが徐々に抜けていったということである。もはや哲学は過去の哲学者が残したテキストばかりを扱う学問となったのである。

もちろん哲学者も哲学分野に籠ってやってればいいと思っているわけではない。物理学や生命科学、脳科学から発見された新しい知見を取り入れて、あるいは考慮すべきものとして触れて、新しい見方をどうにか構築しようとしているのが文章を通して感じ取ることができる。しかし残念なことにそれらの新しい知見は非常に半端に、あるいは都合の良い形に整形されて使われているため、なんだか文脈から浮いた話として載っているのである。

彼らにも同情の余地はある。哲学者はバカではない、むしろ物事を深く考えることのできる基礎能力の高い人達の集団であろう。ここから先は多分に私の推測だが、問題は彼らの扱うものであると考えている。学問の世界というのは大体どこも似たようなものだが、彼らなりの文脈にそった主張をする必要がある。数学であれば公理であり物理であれば過去に確認された物理法則等である。それらを覆す主張というのは基本的に成り立たず、それが本当であっても周りに理解されるのが非常に難しいことである。

きっと哲学も学問的に過去のテキストをベースに構築された主張をする必要があるために、何某主義やら何某論などを正しく理解し、使えるようにする訓練を長い時間受けてきているのに違いない。そしてそれらへの積み上げでしか論じることができなくなっていると思うのである。

彼らは数学の定理の様に過去のテキストから文章を引用し、その解釈を使って論を構築し、そこに世間の空気や学術的発見を隠し味に(彼らの分野での)新しい見解を発明するのである。そして、それらのテキストがあまりに膨大すぎてもはやそこに正しく外部の学問知識を統合するほどの余地や力は残っていないのに違いない。

物理学、生物学、脳科学、人類学が格段に発展してきた今、哲学で積み上げてきた言葉だけでの真実の構築は限界に来ているのではないだろうか。もちろん哲学支持派からは、哲学的に有効な反論があるのに違いない。文章の深い部分が読めていない、真理が語られているのに気づいていない、なんなら哲学無用論は哲学であるくらいの話もありそうだ。しかし私は哲学の本を読むたびに、もはや哲学は学問の出がらしであり、そこに本来追求すべき本質は残っていないのではないかと感じてしまうのである。