神々の沈黙を読み終わった話

相変わらず感想を纏められないので思ったことをつらつらと。

非常に分厚い本で、内容もかなり仮説的であることと、イーリアス等のかなり古い文献をベースに話をしており、いまいち繋がりが理解できない部分も多かったため読み終わるのに非常に苦労した。いや教養が足りないのが一因であった気もするが。多分人に聞かれたら、それなら読み終わったよ、位の事しか言えない。

とは言えいくつか印象に残った話を書いておく。

最初に印象に残ったのが言語に名詞が登場したのが2万5千年くらい前なのではないか、という話であった。自分はアフリカを出て行った頃(7万~20万年前と言われている)にはある程度簡単な言語的なコミュニケーションをとれていたと思っていたので、少々驚いた。

もちろん今の様なスムーズなコミュニケーションではなかっただろうとは思っているが、声帯など骨格的にはほとんど今の人と同じ形状だったはずで、原始的な警戒音などから発達していったとするなら何十万年も進歩しなかったというのはちょっと信じがたい。

もちろん身体的適性があれば即適応可能な能力が全て備わるわけでは無いので、否定もできないわけだが、自分は当時の生活習慣を考えても、アフリカを出るころには既に言語は持っていたのではないかと思っている。

もう一つは二分心と訳されている話で、これがこの本の中核的話題である。二分心とは即ち脳には今で言う人の領域と神の領域が左右に分かれて存在し、人は神の言葉に従って生きていた、という話である。そしてその神の言葉というのは元々は族長などの格上の人間の言葉や言い伝えが文化的に刷り込まれ、神の声として形作られていったというのである。

これはなかなか面白い話で、確かにありそうな話である。個人的な経験としては子供のころ、何かやらかしてしまった後で親の怒った顔が浮かぶというのに相当するのだろうか。それが初期においては昔の族長や王だったりの残した言葉が刷り込まれ、何か言われるであろうシチュエーションで頭の中で再生されていたという事である。

知らない人の言葉が声として再生されるだろうかと思う人もあるかもしれないが、例えば漫画を読んでいる時に多くの人はそれぞれのキャラクターの声を何となくイメージしているのではないだろうか。それがアニメになった時に声のイメージが違うという感想を書いている人もいるのは事実で、それは架空の人ですら何らかの声を与えられているという事だ。

漫画繋がりで言えば、最近は知らないが以前は主人公が自らの声にハッとして攻撃を避けるなんて表現が良くあった。また、切羽詰まっている時に親しい人が現れて主人公を励ますなんてことも良くあったが、あれも考えてみると不思議な表現だが、自然に受け入れていたのは、二分心の痕跡なのかもしれない。

話を戻すと、族長や王の伝え続けられた声は文化に溶け込み、王や族長という具体的声の主から抽象度を増して最終的には神の声として扱われる様になったということである。面白いのはイーリアスでは感情や状況に応じて神の声が割り当てられているという事だ。

アガメムノンはゼウスに言われてアキレウスから女性を奪い、戦では女神アテネが現れ、困っている時にはアポロンが現れるといった具合である。これは社会が複雑化する中で単一の声よりも複数の声の方が一貫性を持つ必要が無く、より多くの状況に応じた判断ができるようになるという利点があったのかもしれない。

しかしさらに社会の複雑さが増してゆくと、最早神の声に従うだけでは対処しきれない事態が増えてきて、最終的にはより社会環境に適応した思考ができる様になった意思を持つ人が現れ、神の声は沈黙し、そういった世界は消えていったという話であった。

そうは言っても信仰まで消えていったわけではなく、それでも神にすがるために人々は儀式を複雑化し、神と人の間に天使や巫女をたて、なんとか声を届けてもらおうとする。そして、最終的に外なる神の声から内なる心に信仰を持ち続ける形を持ったキリスト教が現れたという話である。

これはつまり、神の声は聞こえないけれど聞こえなくても良いのだ、なぜなら神は見てる(はずな)ので自分の意志で神を信じ、信仰心を維持し、自らを戒めて生きればよいからである、ということだ。こういった説明でキリスト教を見ると、神々の沈黙した世界で見事な神の換骨奪胎的発想の転換で思想のイノベーションである。

この形であればだれもが神を簡単に信仰することができ、そうでありながら結果は自分の信仰心のせいであるという何とも拘束力の強い宗教の出来上がる。これはイスラム教は当然ながら、(日本の?)仏教も取り入れている形なので、かなり効率的な信者収集拘束機能であったことがうかがえる。

因みにこの本にはキリスト教的探求によって科学が生まれたような話が書いてあるが、これは全くの逆でキリストによる天才的イノベーションのおかげでギリシャ哲学によって作られた真実の追求という道が大きな停滞を受ける事になったのである。

今でも尊敬を集めるアリストテレス的思想が消しきれずに残っていたことと、文化的に開いていたオスマン帝国によって知識が維持されてきたから再度進歩を見たのであって、キリスト教が現代科学の礎を成したというのは全く受け入れられない話である。

ただ、大きなイノベーションというのは大体副作用があるものなので、結果的には致し方の無い話であるが。

さて、昔は自然現象に対する理由付けから神に対する信仰が生まれたという話が主であったわけだが、二分心から神が生まれたという話もなかなか説得力のある話である。なにせ厚さが違う。

しかし、本書的には二分心終了後の記録とは言え、中国の歴史を思い返してみるとあまりそういった痕跡というのは思い当たらない様にも思う。中国の歴史書などは宗教色を感じないものしかない印象すらある。

孔子の話の中に、死んだご先祖になりきって行う儀式というのがあったような記憶がある程度だ。無論仏教は中国から伝来したわけなので、中国にも宗教があったのは間違いない。しかしイメージ的には民間信仰レベルである。

纏まりの無い読書感想文だったが、何にせよ意思が生まれた理由というのは人類の一つの大きな謎であり、その理由が言語発達と神の登場、そして社会の複雑化による神の退場によってなされたというのは一つの仮説として説得力のある話であった。