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私はこんな人④

青年期

私はこんな人③の続きです。

高校を卒業して

鞄一つで

何も考えずに上京しました。


正確には専門に行く予定だったのですが

母が250万円は払えないから働いてほしい

という事で

働くという選択をしたのです。


まず、職探し。

私の条件は寮がある事。

そしてお給料がいい事。

とらばーゆで探して

巡り合ったのが

エステティシャンだったのです。

六本木にマンション寮があって、

初任給も26万という事で申し分なしです。


生まれて初めての銀座。

緊張しながら面接指定の喫茶店へ。

そして、そこに現れた女性社長は

私の目の前に座ると即座に

私の両手を握りしめ

「あなたの手はエステティシャンになるための手だわ」

と一言いうと

何枚も何時間も心を込めて書いた履歴書を見ることなく、

即採用となりました。


そして、この女社長こそが後に私のメンターとなるのです。


六本木の街を堪能することもなく

私は仕事以外の時間はほぼマダム(女社長)と一緒にいました。

エステ店舗は銀座の一等地にあり

90分のフェイシャルコースが5万円

という値段設定だったので、

顧客様はアッパーマス層以上のお客様でした。


私は社員全員に同じ教育をしているのだろう

と思い、マダムがずっとそばにいる環境を

変に感じる事は全くありませんでした。

マダムは、まだ高校時代の小麦肌を

色白にしていく方法を教えてくれたり

それなりの服を買ってくださったり

テーブルマナーを教えてくださったり

言葉遣いもすべて教え込まれたり

それはそれは

花嫁修業のような毎日でした。


若さの財産

素直さと

生まれ持った肌の質、きめ細かさ

ふわふわの柔らかい手

どうやらマダムはここを気に入ってくださってました。

そして

それに応えようと私も本気で

仕事に没頭しました。


基本給に歩合がかなり差が出るお給料だったので

私は正式採用後

手取り40万を切ることはなく

最高月収は200万を超えた月もありました。


マダムは

私に自由にのびのび

なんでもやらせてくれました。

新しい化粧品の商品開発から

自分で作り上げたメニューのスクールや

ハワイ挙式&ブライダルエステ98万円プランなど

バブル期はもう終わっていたのですが

とにかく仕事がうまくいきすぎて

天狗になり始めると

マダムは本気で叱ってくれました。


私のために仕事ばかりで、すれ違った母。

母に教育されなかった分

マダムが東京の母として

私に厳しくも優しくしてくれました。

そんな関係が

一生続くと思っていました。



しかし

その生活は3年目にして突然終わりを迎えたのです。

当時のエステ店舗の店長が

愛人と結託して

マダムを社長から引きずり降ろしたのです。

その当時経営のことは全くわからなかったので、

マダムから社長を辞めるとだけ聞かされたのですが、

あなたはここで働きなさい。

と言われたものの

マダムのいない会社に何の未練もなく

マダムと一緒に顧問をおろされた税理士さんに

引き取ってもらったのです。

まったく、畑違いの仕事。


入社後すぐに

一人で100社も担当を任され

全社に直接あいさつに行くことから始まりました。

無資格の私と

会計事務所でみんな簿記2級以上は持っている人ばかりで

仕事内容もお茶くみやパソコン入力、集金業務

そして手取りも17万。

六本木から日暮里へ引っ越しをしました。

とにかく何もできない自分が悔しくて、悔しくて

田舎者の私は満員電車が嫌いなので

朝5時に電車に乗って23時の電車で帰る

そんな生活をしていました。

仕事は9時から17時までなので

時間外は

必死に簿記を独学で学びました。

その甲斐あって

1年後には簿記1級を取ることができたのです。

やはり、私の負けず嫌いは

大人になってからも

良い意味で成長させてくれていました。



銀座


今日も最後までお読みいただき

ありがとうございました。

私はこんな人シリーズはこれで終わりになります。

明日からはタイトルを変えて

社会人の私をお届けしていきますので

またみてくださったら嬉しいです。








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