見出し画像

映画『銀河鉄道の夜』を見た

 出町座で『銀河鉄道の夜』を観た。しらない感情がたくさんあった。ジョバンニもカンパネルラも、猫の顔、無表情なのに。表れてないのに、表れてた。

 冒頭クレジットの名前が順番に出るところで、名前の表示の合間合間に点が1つずつ挟まるところからワクワクした。出てくる名前に脚本が別役実とあって、音楽が細野晴臣というのは聞いていたけど、そっちは聞いてなかったので驚いた。
 白い点は星かなと思っていたら、クレジットの最後に名前と姓を分ける点にもなった。
 
 牛の骨を発掘する話はミルクのモチーフのつながりなんだろうけど、岩手という土地の風景の農耕とともに牛がいたんだろうとも思う。今年は3月初旬に岩手に行く予定だったけれど、結局本当に土壇場で行かないことになった。だけど、今年は高村光太郎が宮沢賢治の弟を頼りに岩手の花巻に疎開していた話を本で読んだり、『銀河鉄道の夜』を観たりして、岩手に行っていないけれど岩手に行ったような気分になる。
 
 人間が猫の世界だと思っていたら、人間の人間も出てきた。だけど鷺がお菓子だったり、りんごが手の中で増えたり、鳥がりんごになったりするので、人間の人間が出てきても別におかしくなくて、だけど、猫が人間の世界に人間が人間として出てきたのは、不思議な世界をより一層不思議にしたのではない。猫が人間なのは、置きかわりによって世界が作られている。けれど、人間は、何かの置きかわりには慣れない、という暗示でもある。また、何か(人間)を排除して世界が作られているのではないということでもある。だけど、人間は別のもののメタファーではないけれど、あの映画の世界の中に、流氷で沈没した豪華客船の事故という、人間世界の現実を連れてくる存在になるには十分だった。

 南十字星のところでたくさんの人が降りていったのは、その様子が明るく照らされて見えた。だけどカンパネルラが降りるところでは、カンパネルラにしか幻想は見えずに周りは真っ暗だった。人の死がたくさん集まると、光がとても明るくなっていた。人の死は光るものなんだということを知った。流れ星が光るのが、誰かの死を意味するを知っているのに、あんなに光るということは知らなかった。ぼんやりとわからないことを言うのが詩ではなくて、意味を越えてるのに、説得力があるのが詩だと思う。

 カンパネルラのお父さんが最後ジョバンニに、「明日みんなでうちに遊びにおいで」というところが、なによりも印象的だった。

 映画の最後は宮沢賢治の詩「春と修羅」の序が流れた。「わたしという現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です」「風景やみんなといっしょにせはしくせはしく明滅しながらいかにもたしかにともりつづける因果交流電燈のひとつの青い照明です」。冒頭の点は映画を見ている間も気になっていて、頭の中の白い点の残像が、星になったり、ミルクの脂の点になったりしていたけど、最後に「わたし」になって終わった。

 映画にも出てくる星の日の七夕にこの映画を映画館で観れたのはとても嬉しかった。この日に行くことになったのは、一緒に行った友達がたまたま指定してきた日だった。人が多そうだと思ったけど、(実際補助席出るくらい人多かったけど)それが映画の中に出てくるお祭りみたいで良かった。月日の流れに、季節だけでなく、日にちそのものにたまに大きな意味があるのは、いろんなことが単調に続くよりもいいなと思った。

 帰りに橋の上から見た鴨川は、雨で増水していていた。曇っていたので、街の明かりが雲に反射して夜が光がボヤけていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?