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富士山は三つになった

 六月半ばの週末に東京方面の展覧会巡りをした。京都から夜行バスで朝の東京駅に着いて、そのまま朝からやっている御徒町の銭湯へ行き、新幹線の車窓から見るはずだった富士山を湯けむりの中で見た。
 最初に向かった展覧会は、DIC川村記念美術館 「カラーフィールド 色の海を泳ぐ」だった。広い庭を通って建物に入り、企画展を第二会場から見たのは偶然だった。でも、それが良かった。空間に大きな絵が飾られているのは、ぼやっとした形と色の大きな抽象絵画が並んでいた。意味、形、ぼやっとした絵画は好きだ。前日聞いた話を思い出した。友達がわざわざ旅行で佐賀に行って、日永一日干潟を見て過ごしたという話だった。たまに遠くに船が渡ったり、近くにアメンボかなんかの小さな虫が水に輪を作って移動する。抽象絵画は風景的であるのはなぜか。友達が見た干潟の風景を想像しながら、自分がその時置かれていた状況から、大きな家で大きな絵をかざって暮らしたいと思った。ヘレン・フランケンサーラー 、モーリス・ルイス 、ジュールズ・オリツキー 、ラリー・プーンズの絵画を見ながらそう思った。
 フリーデル・ズーバスの絵画だけ、他と違った特徴を捉えることが出来た。それは早さのある線の集まりが群像的に描かれている絵画だった。線の形は角から伸びた線が掠れていく移動の軌跡である。それから画面の中での目立つ色の線が、絵ごとに存在する。例えば、形としては目立つ重なりであっても、色は地味なものが並ぶ中に、一色明るい色が混ざっている 。それは、画面の勢力的には少し外れた形や場所でもある。色と形とそれらの配置によって絵画が特徴付けられていく。角度を変えて見る、距離を変えて見る、暗さの影響を変えてみる。フリーデル・ズーバスの絵画が並ぶ部屋の壁の位置は独特で、空間の区切り方を変える。その空間の区切り方は、絵画を見る角度を変え、暗さや明るさの変化にもなる。
 そのあとの第一会場は、色と形のはっきりとした抽象絵画や作品が並んでいた。けれど、なにか物足りない。物足りない理由は、はっきりしすぎているせいだ。形と色が。具象ではないからそれは抽象なのだけれど、第二会場の境界の曖昧な絵の方に魅力を感じてしまう。
 続いて常設展には具象が描かれている絵画もあった。具象が具象の対象物とわかる時に頭の中に起こってる反応は何か気になった。例えば、人は風景ではない。けれど、風景の中に人がいることはできる。風景化された人だ。 風景は形か静物か。

 東京駅に戻って、次にアーティゾン美術館へ行く。「ジャム・セッション 写真と絵画──セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策」展は、写真と絵画の相互関係を描く。柴田敏雄も鈴木理策も写真家で、作品の一つの特徴に、抽象的な構図を持つ風景が並ぶ。それらの写真作品が絵画から受けた影響についてを、写真と絵画を並置させることで実際に検証する展覧会だ。ここではその前の時間に見ていた、風景っぽさのある抽象絵画ではなく、風景を写した抽象絵画ような写真が並ぶ。そこで、並べられている藤島武二やセザンヌやクールベといった絵画と、柴田、鈴木の二人の写真を見ているうちに、兵庫県立美術館の「ミニマル/コンセプチュアル:ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術」展で見たベルント&ヒラ・ベッヒャーを思い出すのは、写真に写った抽象的な同じ形や模様が並んだところ、もしくは絵画と写真ごとの各作品の同じ形や要素が、類型学としてのベルント&ヒラ・ベッヒャーに似ているからだと思う。ここでは、具象であるはずの写真に写った風景とそれが抽象に変換される。頭の中で風景が抽象へ行き来する。

 その次に、初台で東京オペラシティ アートギャラリーの篠田桃紅展へたどり着く。書道が抽象絵画になっていた。書道、つまり文字だから、書く順番は右上から書き進む様子が、会場で上映されていた動画に示されていた。書は線と面の兼ね合いや版画、夜と雪といった白と黒の組み合わせになる。篠田桃紅作品が近代建築とともに展示されているスライドがある。最初のDICの時に感じた抽象絵画と建物の関係性が再び頭を過る。
 常設展には「風景」と題された抽象絵画があった。どうしてか冷めた気分になった。抽象絵画と風景の関係を考えようとしている者にとっては、抽象絵画を風景と名付けてしまうことは、手抜きのように思う。違う名前だったら、全然違う印象だったと思う。だけど、他にも今回の常設展には、似た絵画、それは技法、形、なのだけれども、サイズが違う絵画があった。DIC川村記念美術館で見たジュールズ・オリツキー作品は和室の砂壁みたいな絵画で、サイズも大きい。しかし、田中信太郎の「羽化」という赤い絵は、似た技法のように思うけれど、大きい絵を見てから小さいのを見ると物足りなさを感じてしまった。その日絵画を見る順番が違っていたら、それぞれに抱く印象は違っていただろう。

 翌日、抽象絵画を見たのは東京国立近代美術館のゲルハルト・リヒター展だった。リヒターの作品は堂島ビエンナーレやこないだの大阪のルイ・ヴィトンの展示で何度か見たことがある。けれど、いつもよくわからない気がしていたけれど、今回はとてもわかりやすい展覧会だった。
 リヒターは東ドイツから西ドイツへ自由を求めたけれど、その移動に満足した自由をてに入れることができなかったと書かれた解説を読んだ。
 作品は写真と絵画、それから抽象絵画をリヒター自身の作品群の中で行き来する。〈フォト・ペインティング〉は写真のようだけれど、画面構成に歪みを持つことで写真の正確さを失い、絵画でしかなくなる。〈フォト・オン・オイル〉で写真に配置された抽象の模様は、写真のリアリズムと抽象がどちらに相互作用されることなく、独立している。リヒターの作品の一つの特徴は、風景や静物といったモチーフが、写真と絵画の特徴を何度も繰り返しひっくり返しながら行き来をする技法やシステムを持つことだ。そこに明らかな政治性を隠し持つ。

 複数の展覧会を通して、抽象絵画、風景、写真、絵画の関係性を往復する作業をしたところ、夜行バスで東京に着いた朝に銭湯で見た壁絵の富士山というのは、具象絵画または写真、湯けむりが漂う空間であり、本来新幹線の車窓から日中の移動で見るはずの富士山は風景、夜行バスで見ることのできない暗闇のかなの富士山は抽象絵画なのではないかと思いはじめる。おそらく、抽象絵画、風景、写真の関係性は、そういうことでもあるのだろう。この旅で富士山は三つになった。

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