エトワールと花冠

anewhite「エトワールと花冠」東京公演に行ってきた。

6月からずっと楽しみにしていて、まあ正直に言えばこれが楽しみだからこんな偉業ができましたみたいなことはなくて、ただ10月になったらanewhiteに会えるというのが嬉しくて時がたつのが苦じゃなかったという感じなのだけれど、とにかく楽しみにしていたのだ。それは間違いなく。

一音目、激しさとやさしさが拮抗するような爆発的な始まりで、このために時間を重ねてきたんだと心から思った。サナギは新宿の曲だとか、怪獣と光線銃がどれほど大事な曲かとか、anewhiteの出した答えがこれでよかったとか、カズマくんは10cm弱身長が高くなる魔法を使えるとか、感動をたくさんもらった。聴きながら思うのはいつも自分の生活のことなんだけど、たぶん、遠くない未来に節目があるからついつい意識がそこに向かいがちなんだと思う。

来年度から東京を離れる。
自分で決めたことだし、また戻ってくるかもしれないし、でもしばらくはもう少し北のほうで頑張る予定がある。
ここでできた繋がりの途切れ目を感じ始めたのはいつのことだろう。
ぼんやりと、いつか別れが来ると思っていた時はまだよかったのだけれど、明確に意識すると駄目だ。
会わなくなる、会えなくなる人に対して会いたいと思うのは我が儘だという気がしてきて、その先で交わらないなら還元できるものもないし、それなら長い付き合いを前提にしている人と会って関係を深めたほうがその人のためになるだなんて回りくどいことを考えては一定の距離をとってしまう。
それでも会おうとしてくれる人もいて、ありがたいと思うのだけれど、どこかで終わりを意識してしまって不自然なふるまいしかできなくなる。

特にお世話になった人がいる。
挑戦したいと思った時に乗ってくれて、私のそれを支えてくれた人。この人がいなかったら何もできなかったし、東京とか、ここでの繋がりとか、ここに生きる私とか、いろんなものを好きになれずに終わっただろうなという恩のある人。私にできないことが全部できて、話せども話せども価値観が見えてこない、かっこよくて不思議な人。
お世話になりすぎて、これ以上お世話になるなんてと思ってしまっている。
この先一緒に何かすることはなさそうだと思うと、なおさらこの繋がりに固執してはいけないと思う。それに、これ以上お世話になったら、この先どうしたらいいか分からなくなってしまう。ずっと一緒にいられるわけではないと最初から思っていたから、潮時を見極めるつもりでいたのだけれど、思いの外長く近くにいてくれて、この想定外にうろたえ続けている。節目でありがとうの気持ちは伝えきったつもりだから、もう思い残したことはないと思ってしまったせいでもある。冷蔵庫の中身を全部食べきって満腹にもなったと思った時に、冷凍庫には他にも食材があって、気づいたら解凍されて目の前にあるみたいな感じ。固執と関係継続の違いが分からない私はどうしたらいいか分からなくなって今に至る。
私がこじらせすぎているのが悪くて、もうどうしようもないな自分と呆れている中、会いたいとか、会えないとか、そんな意識の世界の話ではなく、何らかの拍子にあなたの世界にお邪魔した時に成長したと思ってもらいたいなとふと思った。繋がりを無理に保つわけでも、切るわけでもなくて、ある程度流れに身を任せながらも常に思い続けていたらいいんじゃない、私?という思いがライブの中で生まれてきて、そうしたら少し気が楽になった。


anewhiteは、「こういう歌です」という覚悟をもっている一方である程度の解釈の余地をいつも残してくれているように感じる。しっかりと伝えたいメッセージはあるのに、どう思うのか、何に重ねるのか、こちらにゆだねてくれる気がして、その重さと気楽さが好きだなと思う。
エト冠のMCにて、寛容なバンドでありたいというお話があったとき(私はそう解釈したお話)、心底安心した。そういうことかなと思った。「何を考えているか分からない」少し寂しくも思うけれど、実際そう。生活をしていて、どんなに仲が良い人でも、相手の考えることが少しのズレもなく100%分かるはずなんてない。その寂しさから目を背けないところから、anewhiteの人間らしさが出ているんだろうな、と思ったら、分からないことが愛おしくなった。綺麗にまとめすぎかしら、でも、分からないから考えて、自分なりの「こういうことかな」をもとに行動して、そうやって考えてもらえることが嬉しい、少なくとも私は。
ファンの皆様の言葉を見ていると、曲や言葉の繋がりに寄り添っていく方が多いなと思う。一方で自分は目の前の音と言葉に精一杯で、ここが繋がっているとかだからこういう意味なのかなとか考えるのは苦手だ。でも、この言葉はこういうことかな、きっとこういう気持ちなんだろうなと目の前の感情に浸ることは好きだし、自分の生活に落とし込んで自分の気持ちを確かめたり気づかされたりすることは多くて、それもひとつの楽しみ方ということで良いのかなぁと肩の力を抜くことができた。というのもまた、目の前の言葉を自分に引き付けた結果の結論であって。

ゆーきくんは序盤、曲の切れ目なんかに「よろしく」ってたくさん言っていて(記憶の限りでは5回ほど)、最初は始まりの合図みたいなものかと思ったけれど、次第にそんなもんではないように思えた。このステージにかける思い、というかこのステージの全部を「よろしく」と託されたような気持ちになった。中盤以降は「ありがとう」が増えて、なんだかほっとした。「よろしく」で終わらなくてよかったなあ、と。届いたと感じる瞬間があったのなら嬉しい。
終わった時、少しでも言葉を手元に置いておきたくて、短歌の栞を買った。短歌って人生の栞みたいなもので、この時こう思ったというのを留めて置けるものなのかなと思って、それを見せてくれるのが少しの背徳感と大きな幸せにあふれているなと感じた。

この先、節目に向かうのみ。
anewhiteが続いていくように、私も続いていく。
有限の世界で、限りが来た先のことも少しだけ考えながら。


追記
アンコールの時にゆうまくんがたくさんお話していて、話題や言葉の選び方がとても好きだなと思った。何気ない投稿にめちゃくちゃ長いキャプションがついたゆうまくんのインスタの投稿が好きで、特にコーヒー牛乳の写真の投稿は一読して保存して最近読み返して保存して良かったなぁと思ったりした。顔も身長も坂口健太郎と違うし、たぶんセンスも違うんだと思うけど、坂口健太郎もゆうまくんになれないし、むしろ坂口健太郎がゆうまくんになることのほうが難しいんじゃないの、と思ったりもした。身長って削れないし。盛ることはできても、ね。もしかして人生も盛ることしかできなくて、それってとっても幸せな事なんじゃない!?なんてことを思いながら朝を迎えます。余韻と私用への緊張で全く眠れませんでした。


追追記
明日はいわゆる「節目」でもあるので、節目にあたってanewhiteを聴けているのが嬉しいし、それこそゆうまくんがお誕生日にXにポストされた「節目を任せられるバンド」、私にとっての「節目を一緒に背負ってほしいバンド」がanewhiteなのだよ~という気持ちです。今年、誕生日を迎えて一番最初に聴くのは「恋人つなぎ」だ、と決めて桜の下まで行って聴いて満足したこともここに残しておきます。


おまけ
最初、「あれ!?ゆうまくんだと思ったらだいごくん!?めっちゃシルエットだいごくんじゃん!」と思ったらだいごくんでした。普通に。照明ついて最初に見たのはそこでしたが、ステージに立つ4人がすごく良い表情をしていてすごく嬉しくなりました。ほんと、おまけのおはなし。

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