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福翁自伝 13. 一身一家経済の由来

頼母子(たのもし)の金弐朱(きんにしゅ)を返す

これから、私が一身一家の経済の事を述べましょう。およそ、世の中に何が怖いといっても、暗殺は別にして、借金ぐらい怖いものはありません。他人に対して金銭の不義理は相済(あいす)まぬ事と決定(けつじょう)すれば、借金はますます怖くなります。私共の兄弟、姉妹は、幼少の時から貧乏の味を嘗(な)め尽くして、母の苦労した様子を見ても、生涯忘れられません。貧小士族の衣食住、その艱難(かんなん)の中に、母の精神をもって、自(おの)ずから私共を感化した事の数々あるその一例を申せば、私が十三、四歳のとき、母に言い付けられて、金子(きんす)返済の使いをしたことがあります。その次第柄(しだいがら)は、こういうことです。天保七年、大阪において、私共が亡父の不幸で母に従って故郷の中津(なかつ)に帰りましたとき、家の普請(ふしん)をするとか何とかいうに、勝手向(かってむき)は勿論(もちろん)、不如意(ふにょい)ですから、人の世話で頼母子講(たのもしこう)を拵(こしら)えて、一口(ひとくち)金二朱(きんにしゅ)ずつで何両とやら、纏(まとま)った金が出来て一時の用を弁じて、その後、毎年幾度か講中が二朱ずつの金を持ち寄り、鬮引(くじびき)にて満座に至りて、皆済(かいさい)になる仕組(しくみ)でありますが、大家の人は二朱計(ばか)りの金のために、何年もこんな事に関係しているのは面倒だ、というところから、一時二朱の掛金(かけきん)を出したままに手を引く者があります。これを掛け棄(す)てと言います。その実は、講主が人に金をただ貰うような事なれども、一般の風俗でさまで世間に怪しむ者もない。ところが、福澤の頼母子(たのもし)に、大阪屋五郎兵衛(おおさかやごろうべえ)という廻船屋(かいせんや)が一口二朱(にしゅ)を掛け棄にしたそうです。勿論(もちろん)、私の三、四歳頃か幼少の時の事で何も知りませんでしたが、十三、四歳のときある日、母が私に申すに、

「お前は何も知らぬ事だが、十年前にこうこういう事があって、大阪屋が掛け棄にして、福澤の家は大阪屋に金二朱を貰うたようなものだ。誠に気に済まぬ。武家が町人から金を恵まれて、それをただ貰うて黙っていることは出来ません。疾(と)うから返したい、返したいと思ってはいたが、ドウもそういかずに、ヤッと今年は少し融通が付いたから、この二朱のお金を大阪屋に持って行って、厚(あつ)う礼を述べて返して来い。」

と申して、その金を紙に包んで私に渡しました。ソレから私は大阪屋(おおさかや)に参って金の包みを出すと、先方では意外に思うたか、

「御返済など却(かえ)って痛入(いたみい)ります。最早(もはや)古い事です。決してそんな御心配には及びません。」

と言って頻(しき)りに辞退すれども、私は母の言うことを聞いているから、是非(ぜひ)渡さねばならぬと、互いに押し返して、口喧嘩のように争って、金を置いて帰ったことがあります。今は、ハヤ五十二、三年も過ぎて、むかし、むかしの事でありますが、そのとき母に言い付けられた口上も、先方の大阪屋の事も、チャンと記憶に存して忘れません。年月日は覚えてないですが、何でも朝のことと思います。豊前(ぶぜん)中津(なかつ)下小路(しもこうじ)の西南の角屋敷、大阪屋五郎兵衛(ごろべえ)の家に行って、主人五郎兵衛は留守で、弟の源七に金を渡したということまで覚えています。こんなことが、少年の時から私の脳中に残っているから、金銭の事については、何としても大胆な横着な挙動は出来られません。

金がなければ出来る時まで待つ

ソレから段々成長して、中津(なかつ)にいる間は、漢学修業の傍(かたわら)に内職のような事をして、多少でも家の活計を助け、畑もすれば米も搗(つ)き、飯も炊き、鄙事(ひじ)多能(たのう)。あらん限りの辛苦(しんく)して貧小士族の家におり、年二十一のとき初めて長崎に行って、勿論(もちろん)、学費のあろうわけもない。寺の留守番をしたり、砲術家の食客(しょっかく)になったりして、不自由ながら蘭学を学んで、その後、大阪に出て、大阪の緒方(おがた)先生の塾に修業中も、相替(あいか)わらず金の事は恐ろしくて、ただの一度でも他人に借りたことはない。人に借用すれば必ず返済(へんさい)せねばならぬ。当然(あたりまえ)のことで分かりきっているから、その返済する金が出来る位ならば、出来る時節まで待っていて借金はしないと、こう覚悟を決めて、ソコで二朱や一分はさて置き、百文(ひゃくもん)の銭でも人に借りたことはない。チャンと自分の金の出来るまで待っている。それからまた、私は質(しち)に置いたことがない。着物は塾にいるときも、故郷の母が夏冬手織(ており)木綿(もめん)の品を送ってくれましたが、ソレを質に置くといえば、いつか一度は請還(うけかえ)さなければならぬ。請還(うけかえ)す金があるなら、その金の出来るまで待っているがよい、とこう思うから、金の入用はあっても、ただの一度も質に入れたことがない。けれども、いよいよ金に迫って、どうしてもなくてならぬというときか、恥かしい事だが酒が飲みたくて堪らないというようなことがあれば、思い切ってその着物を売ってしまいます。例えばその時に、浴衣一枚を質に入れれば、弐朱(にしゅ)貸してくれる。これを手離して売るといえば、弐朱(にしゅ)と弐百文になるから、売ることにするというような経済法にして、且(か)つ、また私は写本で銭を取ることもしない。大事な修業の身をもって、銭のために時を費すは勿体(もったい)ない。吾身(わがみ)のためには、一刻千金の時である。金がなければ、ただ使わぬと覚悟を決めて、大阪にいる間、とうとう一銭の金も借用したことなくして、その後、江戸に来ても同様、仮初(かりそめ)にも、人に借用したことはない。折節(おりふし)、自分で想像しては、ただ怖くて堪らない。借金ができて、人から催促されたらどうだろう。世間の人、朋友の中にも毎度ある話だ。借金ができて返さなければならぬといって、こっちから借りては、あっちに返し、また、こっちから借りては、あっちに返すという者があるが、私は少しも感服しない。誠に気の済まぬ話で、金を借りて返さなくてならぬなんて、さぞ忙しい事であろう。よくもアレで一日でも半日でも安(やす)んじていられたものだと思って、殆(ほとん)ど推量が出来ない。一口(ひとくち)に言えば、私は借金の事について、大の臆病者で、少しも勇気がない。人に金を借用して、その催促にあって返すことが出来ないというときの心配は、あたかも白刃(はくじん)を持って後ろから追っかけられるような心地(こころもち)がするだろうと思います。

駕籠(かご)に乗らず下駄、傘を買う

ソコで、私が金を大事にする心掛けの事実に現われた例を申せば、江戸に参ってから下谷(したや)練塀小路(ねりべいこうじ)大槻俊斎(おおつきしゅんさい)先生の塾に朋友があって、私はその時、鉄砲洲(てっぽうず)にいたが、その朋友のところへ話に行って、夜になって練塀小路(ねりべいこうじ)を出掛けて、和泉橋(いずみばし)のところに来ると雨が降り出した。こりゃドウも困こまったことが出来た。とても鉄砲洲までは行かれないと思うと、和泉橋の側(わき)に辻駕籠かごがいたから、その駕籠屋に鉄砲洲まで幾らで行くかと聞いたら、三朱(しゅ)だと言う。ドウも三朱という金を出してこの駕籠に乗るは無益だ。こっちは足がある。ソレは乗らぬことにして、その少し先に下駄屋が見えるから、下駄屋へ寄って下駄一足に傘一本買って両方で二朱(しゅ)余り。三朱出ない。それから、雪駄を懐(ふところ)に入れて、下駄を穿(は)いて傘をさして鉄砲洲(てっぽうず)まで帰って来た。デ、その途中、私は独り首肯(うなず)き、この下駄と傘がまた役に立つ。駕籠に乗ったって何も後に残るものはない。こんなところが慎むべきことだと思ったことがあります、マアそのくらいに注意していたから、ほかは推して知るべし。一切(いっさい)無駄な金を使ったことがない。紙入れに金を入れて置く。ソレは二分(ぶ)か三分か入れてある。入れてあるけれども、いつまで経ってもその金のなくなったことがない。酒は固(もと)より好きだから、朋友と酒を飲みに行くことはある。ソンな時には金もいりますが、ただ独りでブラリと料理茶屋に入って酒を飲むなぞということは、仮初(かりそめ)にもしたことがない。ソレ程に私が金を大事にするから、また同時に、人の金も決して貪(むさぼ)らない。ソリャ以前、奥平家に対して朝鮮人を気取ったのは別な話にして、そのほかというのは決して金は貪らないと、自身独立、自力自活と覚悟を決めました。

事変の当日、約束の金を渡す

ソコでもって慶応三年、即(すなわ)ち、王政維新の前年の冬、芝(しば)新銭座(しんせんざ)に有馬(ありま)家(大名)の中屋敷が四百坪ばかりあるその屋敷を私が買いました。徳川の昔からの法律によると、武家屋敷は換え屋敷を許しても、売買は許さないというのが掟(おきて)でありました。ところが、徳川もその末年になると、様々な根本的改革というような事が行われて、武家屋敷でも代金をもって売買勝手次第ということになって、新銭座(しんせんざ)の有馬(ありま)の中屋敷が売物になると人の話を聞いて、同じ新銭座住居の木村摂津守(きむらせっつのかみ)の用人、大橋栄次(おおはしえいじ)という人に周旋を頼んで、その有馬屋敷を買うことに約束して、価(あたい)は三百五十五両、その時の事だから買うといったところが、武家と武家との間で手金だの証書取換せなどということのあろう訳(わ)けはない。ただ売りましょう、しからば則ち買いましょう、というだけの話で約束が出来て、その金の受け取り、渡しはいつだというと、十二月二十五日に金を相渡し申す、請け取ろうと、チャンと約束ができていて、それから私はその前日、三百五十五両の金を揃(そろ)えて風呂敷に包んで、翌早朝、新銭座の木村の屋敷に行ってみると、門が締(し)まって、潜戸(くぐりど)まで鎖してある。それから門番に、ここを明けてくれ、何で締めて置くかと言うと、

「イーエ、ここは明けられません。」

「明けられませんたって福澤だ。」

というのは、私は亜米利加(アメリカ)行の由縁で、木村家には常に出入(しゅつにゅう)して、家の者のようにしていたから、門番も福澤と聞いてやっと潜戸(くぐりど)を明けてくれたはくれたが、何だか門前が騒々しい。ドタバタやっている。何事か知らんと思って南の方を見ると、真黒な煙が立っている。ソレで木村の玄関に上がって大橋に遇(あ)って、大変騒々しいが何だというと、大橋がヒソヒソして、

「お前さんは何も知らぬか。大変な事が出来ました、大騒動だ。酒井(さかい)の人数が三田(みた)の薩州の屋敷を焼払おうという。ドウもそりゃ大騒動、戦争で御座(ござ)る。」

と言うから、私も驚いて、ソリャ少しも知らなかった。成程、ドウも容易ならぬ形勢だが、それはそれとして、時にあの屋敷の金を持って来たから、渡しておくんなさいと言うと、大橋が、途方もない。屋敷どころの話じゃない。何の事だ。モウこりゃ江戸中の屋敷が一銭の価(あたい)なしだ。ソレを屋敷を買うなんて、ソンな馬鹿らしい事は一切罷(や)めだ。マアそんな事をしなさるなといって、取り合わぬから、私は不承知だ。ソリャそうでない。今日渡すという約束だから、この金は渡さなくてはならぬと言うと、大橋は脇の方に向いて、

「約束したからといって、時勢に依(よ)ったものだ。この大変な騒動中に屋敷を買うというような、馬鹿気たことがあるものか。仮令(たとえ)今買えばといっても、三百五十五両を半価にしろと言えば、半価にするに違いない。ただの百両でも悦(よろこ)んで売るだろう。とにかくに見合わせだ。やめだ、やめだ。」と言って相手にならぬから、私は押し返して、

「イヤそれは出来ません。大橋さん、よくお聞きなさい。先達(せんだ)って、これを有馬から買おうというときに、何と貴方は約束なすったか。只十二月の廿五(二十五)、即ち今日、金を渡そう、受取ろうと。ソレよりほかに、何にも約束はなかった。もし万が一、世の中に変乱があれば破約する。その価(あたい)を半分にするという言葉が、約束の中にあるかないかというに、そんな約束はないではないか。仮令(たと)い約条書がなかろうと、人と人と話したのが何寄(なにより)の証拠だ。売買の約束をした以上は、当然(あたりまえ)に金を払わぬこそ大きな間近いだ。何でも払わんければならぬ。加之(しかのみならず)、マダ私がいうことがある。もし、大橋さんの言う通りに、この三百五十五両を半価にせよとか、百両にせよとかいえば、時節柄、有馬家では承知するであろう。ソコで私が三百五十五両の物を百両に買ったとこうしたところで、この変乱がどんなになるか分からない。今、あの通り、酒井の人数が三田の薩州屋敷を焼き払っているが、これが何でもない事で、天下奉平(たいへい)、安全の世の中になるまいものでもない。さて、いよいよ、天下泰平になって、私がかの買屋敷の内に住まい込んでいる。スルと、有馬の家来も大勢あるから、私のところの門前を通る度(たび)に睨んで通るだろう。彼の屋敷は三百五十五両の約束をしたが、金の請け取り渡しのその日に三田に大変乱があったそのために百両で売った。福澤は、二百五十五両得をして、有馬家では二百五十五両損をしたと、通る度に睨んで通るに違いない。口に言わないでも、心にそう思っていやな顔をするに決まっている。私はソンな不愉快な屋敷に住もうと思わない。何はさて置き、構うことはない。ドウぞこの金を渡して下さい。皆無(かいむ)損をしてもよろしい。この金をただ渡したばかりで、その屋敷に住まうどころではない。逃げ出して行くというような大騒動があるかも知れない。あればあった時の話だ。人間世界の事は、何が何やら分からない。確かに生きていると思う人が死んだりする。(いわんや)金だ。渡さなければならぬ。」

と捩(ね)じくれ込んで、とうとう持って行って貰いました。そういうわけで、誠に私が金ということについて、極めて律義に正しくやっていたというのは、これは矢張(やはり)昔の武家根性で、金銭の損得に心を動かすは卑劣だ。気が餒(す)えるというような事を思ったものと見えます。

子供の学資金を謝絶す

それにまた似寄(によ)ったことがあります。明治の初年に、横浜のある豪商学校を拵(こしら)えて、この慶應義塾の若い人を教師に頼んで、その学校の始末をしていました。そうすると、その主人は私に親(みず)から新塾に出張して監督をして貰いたい、という意があるように見える。私の家にはそのとき男子が二人、娘が一人あって、兄が七歳に弟が五歳ぐらい。これも、追々成長するに違いない。成長すれば外国に遊学させたいと思っている。ところが、世間一般の風を見るに、学者とか役人とかいう人が、ややもすれば政府に依頼して、自分の子を官費生にして外国に修業させることを祈って、ドウやらこうやら、周旋が行き届いて目的を達すると獲物でもあったように悦ぶ者が多い。嗚呼(ああ)、見苦しい事だ。自分の産んだ子ならば、学問修業のために洋行させるもよろしいが、貧乏で出来なければさせぬがよろしい。それを乞食のように人に泣き付いて修業をさせて貰うとは、さても、さても意気地のない奴共だと、心窃(ひそ)かにこれを愍笑(びんしょう)していながら、私にも男子が二人ある。この子が十八、九歳にもなれば、是非とも外国にやらなければならぬが、先だつものは金だ。どうかして、その金を造り出したいと思えども、前途甚だ遥かなり。二人やって何年間の学費は中々の大金。自分の腕で出来ようか、どうだろうか、誠に覚束(おぼつか)ない。困ったことだと、常に心に思っているから、敢えて愧(はじ)ることでもなし、颯々(さっさつ)と人に話して、金が欲しい、金が欲しい、ドウかして洋行をさせたい。今、この子が七歳だ、五歳だというけれども、モウ十年経てば仕度をしなければならぬ。ドウも、ソレまでに金が出来ればよいがと、人に話していると、誰かこの話を例の豪商にも告げた者があるか。ある日、私のところに来て商人の言うに、お前さんにあの学校の監督をお頼み申したい。かく申すのは、月に何百円とかその月給を上げるでもない。態々(わざわざ)月給といっては取りもしなかろうが、ここに一案があります。ほかではない、お前さんの小供両人、あのお坊ッちゃん両人を外国にやるその修業金になるべきものを今お渡し申すがどうだろう。ここで今、五千円か一万円ばかりの金をお前さんに渡す。ところで、今、要いらない金だから、ソレをどこへか預けて置く。預けて置くうちに小供衆が成長する。成長して外国に行こうというときには、その金も利倍増長して確かに立派な学費になって、不自由なく修業が出来ましょう。この御相談はいかがで御座(ござ)る、と言い出した。成程、これはいい話で、こっちはモウ実に金に焦がれているその最中に、二人の子供の洋行費が天から降って来たようなもので、即刻、応と返辞(へんじ)をしなければならぬところだが、私は考えました。待て、霎時(しばし)。どうもそうでない。抑(そもそ)も、乃公(おれ)があの学校の監督をしないというものは、しない所以(ゆえん)があって、しないとチャンと説を決めている。ソコで今、金の話が出て来て、その金の声を聞き前説を変じて学校監督の(もとめ)に応じようといえば、前にこれを謝絶したのが間違いか、ソレが間違いでなければ、今その金を請け取るのが間違いである。金のために変説といえば、金さえ見れば何でもすると、こうならなければならぬ。これは出来ない。且(か)つ、また今日、金の欲しいというのは何のために欲しいかといえば、小供のためだ。小供を外国で修業させて役に立つようにしよう、学者にしようという目的であるが、子を学者にするという事が果たして親の義務であるかないか、これも考えてみなければならぬ。家に在る子は親の子に違いない。違いないが、衣食を授けて親の力相応の教育を授けて、ソレで沢山だ。どうあっても最良の教育を授けなければ親たる者の義務を果たさないという理窟はない。親が自分に自ら信じて心に決しているその説を、子のために変じて進退するといっては、所謂(いわゆる)独立心の居所(いどころ)が分からなくなる。親子だといっても、親は親、子は子だ。その子のために節(せつ)を屈して子に奉公しなければならぬということはない。よろしい、今後もし、おれの子が金のないために十分の教育を受けることが出来なければ、これはその子の運命だ。幸いにして、金が出来れば教育してやる。出来なければ、無学文盲のままにして打遣(うちや)って置くと、私の心に決断して、さて先方の人は誠に厚意をもって話してくれたので、固(もと)より私の心事を知るわけもないから、体能(ていよ)く礼を述べて断りましたが、その問答応接の間、私は眼前(がんぜん)に子供を見て、その行末を思い、また顧(かえり)みて自分の身を思い、一進一退、これを決断するには随分(ずいぶん)心を悩ましました。その話は相済(あいす)み、その後も相替(あいか)わらず、真面目に家を治めて、著書飜訳(ほんやく)の事を勉(つと)めていると、存外に利益が多くて、マダその二人の小供が外国行きの年頃にならぬ先に金の方が出来たから、小供を後まわしにして、中上川彦次郎(なかみがわひこじろう)を英国にやりました。彦次郎は私のたった一人の甥で、あちらもまた、たった一人の叔父さんで、ほかに叔父はない。私もまた彦次郎のほかに甥はないから、まず親子のようなものです。あれが三、四年も英国にいる間には、随分金も費しましたが、ソレでも後の小供を修業にやるという金はチャンと用意が出来て、二人とも亜米利加(アメリカ)に六年ばかりやって置きました。私は、今思い出しても誠にいい心持がします。よくあの時に金を貰わなかった。貰えば生涯気掛りだが、いい事をしたと、今日までも折々思い出して、大事な玉に瑾(きず)を付けなかったような心持がします。

乗船切符を偽らず

右様な大金の話でない、極々(ごくごく)些細の事でも一寸(ちょい)と胡麻化(ごまか)して貪(むさぼ)るようなことは、私の虫が好かない。明治九年の春、私が長男、一太郎(いちたろう)と次男、捨次郎(すてじろう)と両人を連れて上方(かみがた)見物に行くとき、一は十二歳余り、捨は十歳余り、父子三人従者も何もなしに、横浜から三菱会社の郵便船に乗り、船賃は上等にて十円か十五円。規則の通りに払って神戸に着船。金場小平次(きんばこへいじ)という兼ねてから懇意(こんい)の問屋に一泊。ソレから大阪、京都、奈良等、諸所見物して神戸に帰って来て、また三菱の船に乗り込むとき、問屋の番頭に頼んで乗船切符を買い、サア乗り込みというときに、その切符を請け取ってみれば、大人の切符が一枚と、子供の半札が二枚あるから、番頭を呼んで、

「先刻申した通り切符は大人が二枚、小供が一枚のはずだ。何かの間違いであろう。替えて貰いたい。」

と言うと、番頭は落付き払い、

「ナーニ、間違いはありません。大きいお坊ッちゃんの御年(おとし)も、御誕生も聞きました。正味十二と二、三ヶ月、半札は当然あたりまえです。規則には満十二歳以上なんて書いてありますが、満十三、四歳まで大人の船賃を払う者は一人もありはしません。」

と言うから、私は承知しない。

「二、三ヶ月でも二、三日でも規則は規則だ。是非(ぜひ)、規則通りに払う。」

と言うと、番頭も中々剛情で、ソンな馬鹿な事は致しませんと言って議論のように威張(いば)るから、

「何でもよろしい。おれは、おれの金を出して払うものを払い、貴様にはただその周旋を頼むだけだ。何も言わずにくれろ。」

と申して、何円か金を渡して、乗船前、忙しいところに切符を取り替えた事があります。これは、何も珍しくない。買物の代を当然(あたりまえ)に払うまでの事だから、世間の人も左様(さよう)であろうと思うけれども、今日例えば汽車に乗ってみると、青い切符をもって一寸(ちょい)と上等に乗り込む人もあるようだ。過日も横浜から例の青札(あおふだ)を持って上等に飛び込み、神奈川に上がった奴がある。私は箱根帰りに丁度(ちょうど)その列車に乗っていて、ソット奴の手に握ってる中等切符を見て、さてさて、賤(いや)しい人物だと思いました。

本藩の扶持米(ふちまい)を辞退す

これまで申したところでは、何だか私が潔白な男のように見えるが、中々そうでない。この潔白な男が、本藩の政庁に対しては、不潔白とも卑劣とも名状すべからざる挙動(ふるまい)をしていました。話は少々長いが、私が金銭の事に付き、数年の間に豹変(ひょうへん)したその由来を語りましょう。王政維新のその時に、幕府から幕臣一般に三ヶ条の下問を発し、第一、王臣になるか、第二、幕臣になって静岡に行くか、第三、帰農して平に民になるかと言って来たから、私は無論帰農しますと答えて、その時から大小を棄(す)てて丸腰になってしまいました。ソコで、これまで幕府の家来になっているとはいいながら、奥平(おくだいら)からも扶持米(ふちまい)を貰っていたので、幕臣でありながら、なかばは奥平家の藩臣である。しかるに、今度いよいよ帰農といえば、勿論(もちろん)幕府の物を貰うわけもないから、同時に奥平家の方から貰っている六人扶持(ふち)か八人扶持の米も、御辞退申すといって返してしまいました。と申すは、その時に私の生活はカツカツ、出来るか出来ないかという位であるが、しかしドウかしたなら出来ないことはないと、大凡(おおよそ)の見込みがついていました。前にも言う通り私は一体金の要らない男で、一方では多少の著訳書を売って利益を収め、また一方では頓(とん)と無駄な金を使わないから、多少の貯蓄も出来て赤貧ではない。これから先、無病堅固にさえあれば、他人の世話にならずに衣食して行かれると考えを定めて、ソレで男らしく奥平家に対しても扶持方を辞退しました。スルと奥平の役人達はかえってこれを面白く思わぬ。

「ソンナにしなくてもよい。これまで通りやろう。」

と言って、その押問答がなかなか喧(やかま)しい。妙なもので、こっちが貰おうというときには容易にくれぬものだが、要らないというと向こうが頻(しきり)に強(し)うる。ソレで、しまいには、ドウもお前は不親切だ、モウ一歩進めると藩主に対して薄情不忠な奴だというまでになって来た。それから、こっちも意地になって、

「ソレなら戴きましょう。戴きましょうだが、毎月その扶持米を精(しら)げてもらいたい。モ一つついでに、その米を飯(めし)か粥に焚いて貰いたい。イヤ毎月と言わずに、毎日貰いたい。すべての失費は皆米の内で償いさえすればよいからそうして貰いたい。ソレでドウだ。」

と申すに、御扶持(おふち)を貰わなければ不親切、不忠といわれる。不忠の罪を犯すまでにして御辞退申す程の考えはないから慎(つつし)んで戴きます。願の通り、その御扶持米(まい)が飯(めし)か粥になって来れば、私は新銭座(しんせんざ)私宅近処の乞食に触れを出して、毎朝来い、喰わしてやると申して、私が殿様から戴いた物を、私宅の門前において、難渋者共に戴かせますつもりです、というような乱暴な激論で、役人達も困ったと見え、とうとう私のいう通りに奥平藩の縁も切れてしまいました。

本藩に対してはその卑劣朝鮮人の如し

こう言えば、私がいかにも高尚廉潔の君子のように見えるが、この君子の前後を丸出しにすると、実は大笑いの話だ。これは私一人ではない、同藩士も同じことだ。イヤ同藩士ばかりでない、日本国中の大名の家来は大抵(たいてい)皆同じことであろう。藩主から物を貰えば拝領といって、これに返礼する気はない。馳走(ちそう)になれば御酒(ごしゅ)くだされなんと言って、気の毒にも思わず唯(ただ)ありがたいと御辞儀(じぎ)をするばかりで、その実は人間相互(あいたがい)の付き合いと思わぬから、金銭の事についても、またその通りでなければならぬ。私が中津藩に対する筆法は、金の辞退どころか、ただ取ることばかり考えて、何でも構わぬ、取れるだけ取れという気で、一両でも十両でも、うまく取り出せば、何だか猟(かり)に行って獲物のあったような心持(こころもち)がする。拝借といって金を借りた以上はこっちのもので、返すという念は万々ない。仮初(かりそめ)にも自分の手に握れば、借りた金も貰った金も同じことで、後の事は少しも思わず、義理も廉恥(れんち)もないその有様(ありさま)は、今の朝鮮人が金を貪(むさぼ)ると何にも変わったことはない。嘘も吐けば媚びも献じ、散々なことをして、藩の物をただ取ろう、取ろう、とばかり考えていたのは可笑(おか)しい。

百五十両を掠(かず)め去る

その二、三ヶ条を言えば、小幡(おばた)、そのほかの人が江戸に来ていて、私が一切(いっさい)引き受けて世話をしているときに、藩から勿論(もちろん)、ソレに立ち行くだけの金をくれようわけはない。ドウやら、こうやら、種々様々に、私があらん限りの才覚をして金をつくった。例えば、当時、横浜に今のような欧字新聞がある、一週に一度ずつの発行、その新聞を取り寄せて、ソレを飜訳(ほんやく)しては、佐賀藩の留守居(るすい)とか、仙台藩の留守居とか、そのほか一、二藩もありました。ソンな人に話を付けて、ドウぞ飜訳を買って貰いたい、と言って多少の金にするような工風をしたり、または、私が外国から持って帰った原書の中の不用物を売ったりして金策をしていましたが、何分大勢の書生の世話だから、そのくらいの事ではとても追い付くわけのものでない。ところで、その時、江戸の藩邸に金のあることを聞き込んだから、即案にいい加減な事を書き立て、何月何日頃、何の事で自分の手に金の入る約束があるというような嘘を拵(こしら)えて、誠(まこと)めかしく家老のところに行って、散々御辞儀(じぎ)をして、こうこういうわけですから、暫時(ざんじ)百五十両だけの御振替(おふりかえ)を願います、と極(ごく)手軽に話をすると、家老は逸見志摩(へんみしま)という、誠に正しい気のいい人で、暫時(ざんじ)のことならば、拝借仰付(おおせつ)けられてもよかろう、というような曖昧な答えをしたから、その答えを聞くや否(いな)や、すぐにその次の元締役(もとじめやく)の奉行のところに行って、今、御家老(ごかろう)志摩殿にこういう話をしたところが、貸して苦しくないと御聞済(おききずみ)になったから、今日その御金を請け取りたいと言うと、奉行は不審を抱き、ソレはいつの事だか知らぬが、マダその筋(すじ)から御沙汰(さた)にならぬと妙な顔色(かお)しているから、たとえ御沙汰(さた)にならぬでも、モウ事は済んでいます。ただ金さえ渡して下さればよろしい。何も難しい事はない、と段々説(と)いた。ところが、家老衆がそういえば、御金のないことはない。余り不都合でもなかろう、とその答えも曖昧であったが、こっちはモウ済んだ事にしてしまって、その足でまたその下役の元締小吟味(こぎんみ)、これが真実、その金庫の鍵を持っている人である。その小吟味方のところへ行って、ただ今、金を出して貰いたい。こうこういう次第で、決してお前さんの落度になりはしない。正当な手順で、僅か三ヶ月経てば私の手にちゃんと金が出来るから、すぐに返上すると言って、何の事はない、疾雷(しつらい)耳を掩(おお)うに遑(いとま)あらず、役人と役人と評議相談のない間に、百五十両という大金を掠(かす)めて持って来たその時は、恰(あたかも)、手に竜宮の珠(たま)を握りたるが如くにして、且(か)つ、その握った珠(たま)を竜宮へ返そうなんという念は毛頭(もうとう)ない。誠に不埒(ふらち)な奴さ。それでもって、一年ばかり大いに楽をしたことがあります。

原書を名にして金を貪る

またある時、家老、奥平壱岐(おくだいらいき)のところに原書を持参して、御買上(おかいあげ)を願うと持ち込んだところが、この家老は中々黒人(くろうと)で、その原書を見て言うに、これはよい原書だ。大層(たいそう)高価のものだろうと頻(しき)りに賞めるから、こっちはチャンと向こうの腹を知っている。有益な本で実価は安いなどと威張(いば)って出掛けると、ソレじゃほかへ持って行けと言うに決まっているから、一番、その裏を掻(か)いて、

「左様(さよう)です。原書は誠に必要な原書ですが、これを私が奥平様にお買い上げを願うというのは、この代金を私が請け取って、その金は私が使って、そうして、その御買上(おかいあげ)になった原書を私が拝借しようと、こういうので、正味を申せば、私がマア金をただ貰おうという策略でござる。かくの通り、平たく心の実を明らさまに申し上げるのだから、ドウかこの原書を名にして金をください。一口に申せば、私は体(てい)の宜(よ)い乞食、お貰い見たようなものでござる。」

と打付(ぶっつ)けたところが、家老も仕方(しかた)がない、そのわけは、家老が以前に自分の持っている原書一冊を、奥平藩に二十何両かで売り付けたことがある。その事を聞き込んだから私が行ったので、もしも否めば、お前さんはドウだ、と暴れてやろうという強身(つよみ)の伏線がある。まるで脅迫手段だから、家老も仕方なしに承知して、私も矢張(やは)りその原書を名にして先例に由(よ)り、二十何両かの金を取って、その内、十五両を故郷の母の方に送って一時の窮を凌(しの)ぎました。

人間は社会の虫なり

というような次第で、ソレはソレは、卑劣とも何とも実にいいようのない悪い事をして、一寸(ちょい)とも愧(は)じない。仮初(かりそめ)にも、これはドウも有間敷(あるまじき)事(こと)だなんと思ったことがない。取らないのは損だとばかり、猟(かり)に行けば雀を撃ったより、を取った方がエライというくらいの了簡(りょうけん)で、旨(うま)く大金を掠(かす)め取れば、心窃(ひそ)かに誇っているとは、実に浅ましい事であるのみならず、本来、私の性質がソレ程、卑劣とも思わない。随分(ずいぶん)家風の悪くない家に生まれて、幼少の時から、心正しき母に育てられて、卑しくも人に交わって貪(むさぼ)ることはしない、と説を立てている者が、何故に藩庁に対してばかり、こうまでに破廉恥(はれんち)なりしや、頓(とん)と訳(わ)けが分からぬ。シテ見ると、人間という者は、コリャ社会の虫に違いない。社会の時候が有りのままに続けば、その虫が虫を産んで際限のないところに、この蛆虫(うじむし)、即ち習慣の奴隷が不図(ふと)面目を改めるというには、社会全体に大なる変革、激動がなければならぬと思われる。ソコで、三百年の幕府が潰れたといえば、これは日本社会の大変革で、随分(ずいぶん)私の一身も初めて夢が醒めて、藩庁に対する挙動(きょどう)も改まらなければならぬ。これまで、自分が藩庁に向かって愧(は)ずべき事を犯したのは、畢竟(ひっきょう)、藩の殿様などいう者を崇(あが)め奉(たてまつ)って、その極度は、その人を人間以上の人と思い、その財産を天然の公共物と思い、知らず、知らず、自ら鄙劣(ひれつ)に陥りしことなるが、これからは藩主も平等の人間なり、と一念ここに発起して、この平等の主義からして、物を貪るは男子の事に非(あら)ず、という考えが浮かんだのだろうと思われる。その時には、特に考えたこともない。説を付けたこともないが、私の心の変化は恐ろしい。何故(なにゆえ)に、以前、藩に対してあれほど卑劣な男が、後に至っては、折角(せっかく)くれようという扶持方(ふちかた)をも一酷(いっこく)に辞退したか。辞退しなくっても、世間に笑う者もないのに。打って変わった人物になって、この間まで、まるで朝鮮人見たような奴が、恐ろしい権幕(けんまく)をもって、くれる物を刎返(はねかえ)して、伯夷(はくい)、叔斉(しゅくせい)のような高潔の士人に変化したとは、何と激変ではあるまいか。他人の話ではない。私が自分で自分を怪しむことであるが、畢竟(ひっきょう)、封建制度の中央政府を倒して、その倒るると共に個人の奴隷心を一掃したと言わなければならぬ。

支那の文明、望むべからず

これを大きく論ずれば、かの支那の事だ。支那の今日の有様を見るに、何としても満清(まんしん)政府をあのままに存じておいて、支那人を文明開化に導くなんということは、コリや、真実無益な話だ。何はさて置き、老大政府を根絶やしにしてしまって、ソレから組み立てたらば、人心ここに一変することもあろう。政府にいかなるエライ人物が出ようとも、百の李鴻章(りこうしょう)が出て来たって、何にも出来はしない。その人心を新たにして、国を文明にしようとならば、何はともあれ、試みに中央政所を潰すよりほかに妙策はなかろう。これを潰して、果たして日本の王政維新のように旨く参るか参らぬか、きっと請け合いは難しけれども、一国独立のためとあれば、試みにも政府を倒すに会釈はあるまい。国の政府か、政府の国か、このくらいの事は支那人にも分かるはずと思う。

旧藩の平穏は自から原因あり

私の経済話から段々枝(えだ)がさいて長くなりましたが、ついでながら中津藩の事について、モ少し言う事があります。前に申す通り、私は勤王佐幕などという天下の政治論に少しも関係しないのみならず、奥平藩の藩政にまでも至極(しごく)淡泊にあったというそのために、ここに随分(ずいぶん)心に快いことがある。と言うのは、あの王政維新の改革が行われたときに、諸藩の事情を察するに、勤王佐幕の議論が盛んで、ややもすれば旧大臣等に腹を切らせるとか、大英断をもって藩政改革とかいうために、一藩中に争論が起こり、党派が分かれて血を流すというようなことは、いずれの藩も十中八、九、皆ソレであったその時に、もし私に政治上の功名心があって、藩に行って佐幕とか勤王とか何か言い出せば、必ず一騒動を起こすに違いない。ところが、私は黙っていて、一寸(ちょい)とも発言せず、人が噂をすれば、そう喧しく言わんでもいい。棄(す)てて置きなさいというように、極(ごく)淡泊にしていたから、中津の藩中が誠に静で、人殺しも何もなかったのは、ソレがためだろうと思います。人殺しどころか、人を黜陟(ちっちょく)したということもなかった。

藩の重役に因循姑息(いんじゅんこそく)説を説く

ソコで私が明治三年、中津に母を迎えに行ったことがある。ところが、その時は藩政も大いに変わっていまして、福澤が東京から来たから話を聞こうではないか、というようなことになって、家老の邸(やしき)に呼ばれて行った。ところが、藩の役人という有らん限りの役人重役が、皆そこに出ている。案ずるに、私が行ったらば、さぞドウも大変な事を言うだろうと、待ち受けていたに違いない。それから、私がそこに出席すると、重役達の言うに、藩はドウしたらよかろうか。方向に迷って五里霧中なんかんと、何か心配そうに話すから、私はこれに答えて、イヤもうこれはドウするにも及ばぬことだ。よく諸藩では、あるいは禄を平均するというような事で大分騒々しいが、私の考えでは何にもせずに、今日のこのままで、千石(こく)取っている人は千石、百石取って居る人は百石、大平無事に悠々(ゆうゆう)としているが上策だと、その説を詳(つまびら)かに陳べると、列座の役人は大層驚くと同時に、これは、これは、穏かなことを言うものかなといわぬばかりの趣で、大分顔色が宜い。

武器売却を勧(すす)む

それから、段々話が進んで来たところで、私は一つ注文を出した。今いう通り、禄も身分も元の通りにして置くがよかろう。ソレはよろしいが、ここに一つ忠告したいことがある。今、この中津藩には小銃もあれば大砲もあり、武をもって国を立てよう、というその趣(おもむき)はチャンと見えているが、しかし、今の藩士とこの藩にある武器でもって、果たして戦争が出来るかドウか。私はドウも出来なかろうと思う。されば、今日、ただ今、長州の人がズッと暴れ込めば長州に従わなければならぬ。また薩州の兵が攻来(せめく)れば、これにも抵抗することが出来ないから、薩州に従わなければならぬ。誠に心配な話である。これを私が言葉を設けて評すれば、弱藩罪(つみ)なし、武器災(わざわい)をなす、と言わねばならぬ。ダカラ、いっそこの鉄砲を皆売ってしまいたい。見れば、大砲はいずれもクルップだ。これを売れば三千五千、あるいは一万円になるかも知れぬから、一切(いっさい)売ってしまって、昔の琉球みたいになってしまうがよい。そうしておいて、長州から政めて来たら、ヘイヘイ、薩摩からやって来たら、ヘイヘイ、こうしようとか、アアしようとか言えば、ドウか長州に行って直(じか)に話をしてください。また、長州ならドウか薩州に行って直談(じきだん)を頼むと言って、一切の面倒を他に嫁して、こっちはドウでもいいと、こういう仕向けがよかろう。そうしたところで、殺しもしなければ捕縛して行きもしないから、そういうようにしたい。そうして、一方においては、ドウしてもこの世の中は文明開化になるに決まってるから、学校を拵(こしら)えて、文明開化の何物たるを藩中の少年子弟に知らせるという方針を執(と)るのが一番大事である。さて、そういう方針を執(と)るとして、武器を廃してしまえば、余り割合が良すぎるようだが、ソコにはこういうことがある。今、私は東京の事情を察するに、新政府は陸海軍を大に改革しようとして、金がなくて困っている。ソコで、一片の願書なり、届書なり認(したた)めて出して見るがよろしい。その次第は、この中津藩は武備を廃したるために、年々何万円という余計な金がある。この金を納めましょうから、政府の方でドウでもなすって下さいと、こういえば、海陸軍では大に悦ぶ。政府の身になってみれば、この諸藩三百の大名が、各々(おのおの)色変りの武器を作り、色変りの兵を備えて置く、その始末に堪(たま)るものじゃない。ドウしたッて、一様にしたいというのは、コリャ政府の政略において有るに決まったわけではないか。しかるに、ここではクルップの鉄砲だ、隣ではアームストロングの大砲だ、イヤあすこでは仏蘭西(フランス)の小銃、こっちは和蘭(オランダ)から昔輸入したゲベルを持っているというような、日本国中、千種万様の兵備では、政府において、イザ事といっても戦争が出来そうにもしない。ソレよりか、その金を納むるがよい。そうすれば、独り政府が悦ぶのみならずして、中津藩も誠に安楽になる。所謂(いわゆる)、一挙両全の策であるからそうやりなさいと言いました。

武士の丸腰

ところが、ソレには大反対さ。兵事係の役人が三人も四人もいる中で、菅沼新五右衛門(すがぬましんごえもん)という人などは大反対。満坐一致で、ソレは出来ませぬ。何の事はない、武士に向かって丸腰になれと言うような説で、ソレばかりは、何としても出来ないと言うから、私は深く論じもせず、出来なければしなさるな。ドウでもよろしい。御勝手になさい。ただ、私はそうしたらば便利だと思うだけの話だからといって、ソレきりやめになってしまいました。しかし、私はその政治論に熱しなかったというために、中津の藩士が怪我をなかったということは、これは事実において間違いないことで、自(おの)ずから藩のために功徳になっていましょう。その上に、中津藩では減禄をしないのみならず、平均したところで加増した者がある。何でも、大変に割合がよかった。例えば、私の妻の里などは、二百五十石取っていて、三千円ばかりの公債証書をもらい、今泉(秀太郎氏なり)は、私の妻の姉の家で三百五十石か取っていたが、四千円ももらいましたろう。けれども、藩士の禄券というものは、悪銭身に付かずというようなわけで、終(つい)にはなくしてしまって、何もありはしない。とにかくに、中津藩の穏かであったということは間違いない話です。

商売の実地を知らず

話は以前(もと)に立還(たちかえ)って、また経済を語りましょう。私は金銭の事を至極(しごく)大切にするが、商売は甚だ不得手である。その不得手とは、敢えて商売の趣意を知らぬではない。その道理は、一通(ひととおり)心得ているつもりだが、自分に手を着けて売買、貸借は何分ウルサクて、面倒臭くてやる気がない。且(か)つ、むかしの士族書生の気風として、利を貪るは君子の事に非(あら)ず、なんということが脳(あたま)に染み込んで、商売は愧(はずか)しいような心持ちがして、これも自(おの)ずから身に着きまとっているでしょう。既に江戸に初めて来たとき、同藩の先輩、岡見彦三という人が、和蘭(オランダ)辞書の原書を飜刻(ほんこく)して、一冊の代価五両、その時には安いもので、随分望む人もある中に、私が世話をして朋友に一冊買わせて、その代金五両を岡見に持って行くと、主人が金一分、紙に包んでくれたから驚いた。これは何の事か少しも分らん。本の世話をして売ったその礼とは呆れた話だ。畢竟(ひっきょう)、主人が少年書生と見縊(みくび)って金を恵む了簡(りょうけん)であろう。無礼な事をするものかな、と少し心に立腹して、真面目になって争う事があるというような次第で、物の売買に手数料などということは、町人共の話として、書生の身には夢ほども知らない。

火斗(かと)を買て貨幣法の間違いを知る

されども、これらはただ書生の一身に直接して然(しか)るのみ。さて、経済の理窟においては、当時町人共の知らぬところに考えの届くことがある。あるとき、私が鍛冶橋(かじばし)外の金物屋に行って、台火斗(だいじゅうのう)を買って、価が十二匁(もんめ)というその時、どういうわけだか、供の者に銭を持たせて、十二匁なれば、およそ一貫、二、三百文になるから、その銭を店の者に渡したときに、私が不図(ふと)心付た。この銭の目方はおよそ七、八百目から一貫目もある。しかるに、銭の代わりに請け取った台火斗(だいじゅうのう)は二、三百目しかない。銭も火斗も同じ銅でありながら、通用の貨幣は安くて売買の品は高い。これこそ、経済法の大間違いだ。こんな事が永く続けば銭を鋳潰して台火斗を作るが利益だ。何としても日本の銭の価は騰貴するに違いないと説を定めて、一歩を進めて金貨と銀貨との目方、性合を比較して見て、西洋の金一銀十五の割合にすれば、日本の貨幣法は間違いも間違いか大間違いで、私が首唱していうにも及ばず、外国の商人は開国その時から大判小判の輸出で利を占めているとの風聞。ソレから私も知っている金持ちの人に頻(しき)りに勧めて金貨を買わせた事があるが、これもただ人に話をするばかりで、自分には何にもしようとも思い付かぬ。ただ、私の覚えているのは、安政六年の冬、米国行の前、ある人に金銀の話をして、翌年夏、帰国して見れば、その人が大いに利益を得た様子で、御礼に進上するといって、一朱銀の数も計(かぞ)えず私の片手に山盛り一杯金をくれたから、深く礼をいうにも及ばず、何はさて置き、早速(さっそく)朋友を連れて築地の料理茶屋に行って、思うさま酒を飲ませたことがある。

簿記法を飜訳して簿記を見るに面倒なり

まずこのくらいなことで、その癖、私は維新後、早く帳合之法(ちょうあいのほう)という簿記法の書を飜訳(ほんやく)して、今日、世の中にある簿記の書は、皆、私の訳例に傚(ならっ)て書いたものである。ダカラ、私は簿記の黒人(くろうと)でなければならぬ。ところが、読書家の考えと商売人の考えとは別のものと見えて、私はこの簿記法を実地に活用することが出来ぬのみか、他人の記した帳簿を見ても甚だ受取りが悪い。ウンと考えれば、固(もと)より分からぬことはない。きっと分かるけれども、ただ、面倒臭くてソンな事をしている気がないから、塾の会計とか、新聞社の勘定とか、何か入り組んだ金の事はみんな人任せにして、自分は、ただその総体の締めて何々という数を見るばかり。こんな事で商売の出来ないのは私も知っている。例えば、塾の書生などが学費金を持って来て、毎月入用だけ受け取りたいから預けておきたいという者がある。今の貴族院議員の滝口吉良(たきぐちよしろう)なども、先年、書生の時はその中の一人で、何百円か私のところに預けてあったが、私はその金をチャンと箪笥(たんす)の袖斗(ひきだし)に入れておいて、毎月取りに来れば十円でも十五円でも入用だけ渡して、その残りはまた紙に包んでしまって置く。その金を銀行に預けて、どうすれば便利だということを知るまい事か、百も承知で心に知っていながら、手ですることが出来ない。銀行に預けるはさて置き、その預けた紙幣の大小を、一寸(ちょい)と私に取替えて、もとの姿を変えることも気が済まない。どうでも、これは持って生まれた藩士の根性か、しからざれば、書生の机の抽斗(ひきだし)の会計法でしょう。

借用証書があらば百万円遣ろう

ソコである時、例の金融家のエライ人が私方に来て、何か金の話になって、千種万様、実に目に染みるような混雑な事を言うから、さてさて、どうもウルサイ事だ。この金をあっちに向けて、あの金はこっちに返すという話であるが、人に貸す金があれば借りなくてもよさそうなものだ。商売人は、人の金を借りて商売するということは私もよく知っているが、苟(いやしく)も、人に金を貸すということは、余った金があるから貸すのだ。たとえ商売人でも貸す金があるなら、なるたけソレを自分に運転して、他人の金をばなるたけ借用しないようにするのが本意ではないか。しかるに、自分に資本を持っていながら、わざわざ人に借用とは入らざる事をしたものだ。余計な苦労を求めるようなものだと言うと、その人が大いに笑って、迂闊(うかつ)千万、途方もない事を言う。商売人というものは、入り組んで、入り組んで、滅茶々々(めちゃめちゃ)になったというその間に、また種々様々の面白いことのあるもので、そんな馬鹿な事が出来るものか。ただに商売人に限らず、およそ人の金を借用せずに世の中を渡るということが出来るものか。ソンな人がどこにいるか、といって私を冷却するから、私はその時初めてヒョイと思い付いた。今、御話を聞けば、世の中に借金しない者がどこにいるかと言うが、その人は今ここにいます。私はこれまで、ただの一度も人の金を借りたことがない。

「そんな馬鹿な事を言いなさるな。」

「イヤ、どうしてもない。生れて五十年(これは十四、五年前の話)、人の金を一銭でも借りたことはない。ソレが嘘だと思うならば、試みに私の印形の据(すわっ)ているものとまでは言わないから、反古(ほご)でも何でもよろしいので、ソレを捜して持って来て御覧。私が百万円で買おう。ドウしたってありはしない。日本国中に福澤の書いた借用証文というものは、ソレこそ有る気遣いはないがどうだ。」

というようなわけで、その時に私も初めて思い出したが、私は生れてこのかた、ついぞ金を借りたことがない。これはマア、私の眼から見れば尋常一様の事と思うけれども、世間の人が見たらば、甚だ尋常一様でないのかも知れぬ。

金を預けるも面倒なり

ソレで私は今でも多少の財産を持っている。持っていたけれども、私ところの会計というものは至極(しごく)簡単で、少しも入り込んだことはない。この金を誰に返さなければならぬ、これをこちらに振り向けなければならぬ、というような事は絶えてない。ソレで僅かばかり二百円とか三百円とかいう金が、手元にあってもなくても構わない。ソレを銀行に預けて、必要のとき小切手で払いをすれば利息が徳になるという。ソレは私もよく知っていて、世間一体そういうふうになりたいとは思えども、さて自分には小面倒(こめんどう)臭い。ソンな事にドタバタするよりか、金は金でしまって置いて、払うときにはその紙幣を数えて渡してやると、こういう趣向にして、私も家内もその通りな考えで、真実封建武士の机の抽斗(ひきだし)の会計ということになって、その話になると丸で別世界のようで、文明流の金融法は私の家に入りません。

仮初にも愚痴を云わず

それからして、世間の人が私に対して推察するところを、私がまた推察して見るに、ドウも世人の思うところは決して無理でない。と言うのは、私が若い時から困ったということを一言(いちごん)でも言ったことがない。誠に家事多端(たたん)で金の入用が多くて困るとか、今年はこういう不時(ふじ)な事があって困却致すとかいうような事を、仮初(かりそめ)にも口外したことがない。私の眼には、世間が可笑(おか)しく見える。世間多数の人が、動(やや)もすれば貧乏で困る、金が不自由だ、無力だ、不如意(ふにょい)だ、なんかんと愚痴をこぼすのは、あるいは金を貸してもらいたいというような意味で言うのか、但(ただ)しは、洒落(しゃれ)に言うのか、飾りに言うのか、私の眼から見れば何の事だか少しも訳(わ)けが分からない。自分の身に金があろうとなかろうと、敢(あ)えて他人に関係したことでない。自分一身の利害を下らなく人に語るのは、独語(ひとりごと)を言うようなもので、こんな馬鹿気た事はない。私の流儀にすれば、金がなければ使わない。あっても無駄に使わない。多く使うも、少なく使うも、一切(いっさい)世間の人のお世話に相成(あいな)らぬ。使いたくなければ使わぬ。使いたければ使う。かつて人に相談しようとも思わなければ、人に喙(くちばし)をいれさせようとも思わぬ。貧富苦楽。共に独立独歩。ドンな事があっても、一寸(ちょい)とでも困ったなんて泣言を言いわずに、いつも悠々としているから、凡俗世界ではその様子を見て、コリャ何でも金持ちだと測量する人もありましょう。ところが、私はまたその測量者があろうとなかろうと、その推測が当たろうと当たるまいと、少しも頓着(とんじゃく)なしに相替らず悠々としています。既に先年、所得税法の初めて発布せられた時などは可笑(おか)しい。区内の所得税掛りとか何とかいう人が、私の家には財産がおよそ七十万円ある、その割合で税を取ると、内々いって来た者があるから、私がその者に言うに、どうぞその言葉を忘れてくれるな。見ている前で福澤の一家残らず裸体(はだか)になって出て行くから、七十万で買ってもらいたい。財産は帳面のまま渡して、家も倉も衣服も諸道具も鍋も釜も皆やるから。ソックリ買い取って七十万円の金に換えたい。ただ、漠然たる評価は迷惑だ。現金で売買したい。そうなれば、生来始めての大儲けで、生涯さぞ安楽であろうと言って、大笑いしたことがあります。

他人に私事を語らず

私が経済上に堅固を守って、臆病で大胆な事の出来ないのは先天の性質であるか、抑(そ)もまた身の境遇に駈られて遂に堅く凝り固まったものでしょう。本年、六十五歳になりますが、二十一歳のとき家を去って以来、自ら一身の謀(はか)りごとをなし、二十三歳、家兄(かけい)を失いしより後は、老母と姪と二人の身の上を引き受け、二十八歳にして妻を娶(めと)り子を生み、一家の責任を自分一身に担って、今年に至るまで四十五年のその間、二十三歳の冬、大阪、緒方先生に身の貧困を訴えて大恩に浴したるのみ。その他は仮初(かりそめ)にも身事家事の私を他人に相談したこともなければ、また依頼したこともない。人の智恵を借りようとも思わず、人の差図を受けようとも思わず、人間万事天運に在りと覚悟して、勉(つと)めることは飽(あ)くまでも根気よく勉(つと)めて、種々様々の方便を運めぐらし、交際を広くして愛憎の念を絶ち、人に勧め、また人の同意を求めるなどは十人並にやりながら、ソレでも思う事の叶わぬときは、尚(なお)それ以上に進んで哀願はしない。ただ、元に立ち戻って独り静かに思い止まるのみ。詰(つ)まるところ、他人の熱によらぬというのが私の本願で、この一義は私がいつ発起したやら、自分にもこれという覚えはないが、少年の時からソンな心掛け、イヤ心掛けというよりも、ソンな癖があったと思われます。

按摩(あんま)を学ぶ

中津にいて十六、七歳のとき、白石という漢学先生の塾に修業中、同塾生の医者か坊主か二人、至極(しごく)の貧生で、二人とも按摩(あんま)をして凌(しの)いでいる者がある。その時、私は如何(どう)でもして国を飛び出そうと思っているから、これを見て大いに心を動かし、コリャ面白い。一文なしに国を出て、まかり違えば按摩(あんま)をしても喰うことは出来ると思って、ソレから二人の者に按摩の法を習い、頻(しき)りに稽古して随分(ずいぶん)上達しました。幸いに、その後、按摩(あんま)の芸が身を助ける程の不仕合(ふしあ)わせもなしに済みましたが、習った芸は忘れぬもので、今でも普通の田舎按摩(あんま)よりかエライ。湯治などに行って、家内子供を揉んでやって笑わせる事があります。こんな事がマア私の常にいう自力自活の姿とでもいうべきものか、これが故人の伝を書くとか何とかいえば、何々氏夙(つと)に独立の大志あり、年(とし)何歳その学塾にあるや、按摩法を学んで云々(うんぬん)なんと、鹿爪(しかつめ)らしく文字を並べるであろうが、私などは十六、七のとき大志も何もありはせぬ。ただ貧乏で、その癖、学問修業はしたい。人に話しても世話をしてくれる気遣いなし。しょうことなしに、自分で按摩(あんま)と思い付いた事です。およそ、人の志はその身の成り行き次第によって大きくもなり、また小さくもなるもので、子供の時に何を言おうと何を行おうと、その言行が必ずしも生涯の抵当になるものではない。ただ、先天の遺伝、現在の教育に従って、根気よく勉めて迷わぬ者が勝を占めることでしょう。

一大投機

私が商売に不案内とは申しながら、生涯の中で大きな投機のようなことを試みて、首尾よく出来た事があります。ソレは、幕府時代から著書飜訳(ほんやく)を勉めて、その製本、売り捌(さば)きの事をば、すべて書林に任してある。ところが、江戸の書林が必ずしも不正の者ばかりでもないが、兎角(とかく)人を馬鹿にする風(ふう)がある。出版物の草稿が出来ると、その版下を書くにも、版木(はんぎ)版摺(はんずり)の職人を雇うにも、またその製本の紙を買い入れるにも、すべて書林の引き受けで、その高いも安いもいうがままにして、大本(おおもと)の著訳者は当合扶持(あてがいぶち)を授けられるというのが年来の習慣である。ソコで、私の出版物を見ると、中々大層なもので、これを人仕せにして不利益は分かっている。書林の奴等(やつら)に何程の智恵もありはしない。高(たか)の知れた町人だ。何でも一切(いっさい)の権力を取りあげて、こっちのものにしてやろうと説を定めた。定めたはよいが、実は望洋の歎(たん)で、少しも取付端(とっつきは)がない。第一番の必要というのが、職人を集めなければならぬ。今までは、書林が中に挟(はさま)っていて、一切の職人という者は著訳者の御直参(おじきさん)でなく、向こう河岸にいるようなものだから、彼をこちらの直轄にしなければならぬというのが、差し向きの必要。ソコで私は一策を案じたその次第は、当時、明治の初年で余程金もあり、これを掻(か)き集めて千両ばかり出来たから、それから数寄屋町の鹿島という大きな紙問屋に人をやって、紙の話をして、土佐半紙を百何十俵、代金千両余りの品を即金で一度に買うことに約束をした。その時に、千両の紙というものは、実に人の耳目(じもく)を驚かす。いかなる大書林といえども、百五十両か二百両の紙を買うのがヤットの話で、ソコへ持って来て千両現金、すぐに渡してやるというのだから、値も安くする。品物もよい物を寄越すに決まってる。高かったか安かったか知らないが、百何十俵の半紙を一時に新銭座(しんせんざ)に引き取って、土蔵一杯積み込んで、ソレから書林に話して版摺(はんずり)の職人を貸してくれということにして、何十人という大勢の職人を集め、旧同藩の士族二人を監督において仕事をさせている中に、職人が朝夕、紙の出し入れをするから、蔵に入ってその紙を見て大に驚き、大変なものだ、途方もないものだ。この家に製本を始めたが、このくらい紙があれば仕事は永続するに違いないとまず信仰して、且(か)つ、こっちでは払いをキリキリしてやるというようなわけで、これが端緒(いとぐち)になって、職人共は問わず語りに色々な事を皆白状してしまう。こっちの監督者は利いた風(ふう)をしているが、その実は全くの素人でありながら、職人に教わるようなもので、段々巧者になって、ソレから版木師も、製本仕立師も、次第々々に手に附けて、これまで書林のなすべき事はすべてこっちの直轄にして、書林には、ただ出版物の売り捌(さば)きを命じて、手数料を取らせるばかりのことにしたのは、これは著訳社会の大変革でしたが、ただ、この事ばかりが私の商売を試みた一例です。

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