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福翁自伝 9. 再度米国行

それから、慶応三年になって、私はまた亜米利加(アメリカ)に行きました。外国に行くのはこれで三度目です。慶応三年の正月二十三日に横浜を出帆して、今度の亜米利加(アメリカ)行きについても、またなかなか話があります。と言うのは、先年、亜米利加(アメリカ)の公使ロペルト・エーチ・プラインという人が来ていて、その時に幕府で軍艦を拵(こしら)えなければならぬということで、亜米利加(アメリカ)の公使にその買い入れを頼んで、数度に渡したその金高は八十万弗(ドルラル)、そうして追々にその軍艦が出来て来るはずでした。ソレで文久三、四年の頃、富士山(ふじやま)という船が一艘出来てきて、その価(あたい)は四十万弗(ドル)。ところが、その後、幕府はなかなかな混雑で、また亜米利加(アメリカ)にも南北戦争という内乱が起こったというようなわけで、その後一向に便りもなくなってしまいました。何しろ、金は八十万弗(ドル)渡したその中で、四十万弗(ドル)の船が来ただけで、その後は何も来ないのです。左(さ)りとは埓(らち)が明かぬから、アトの軍艦はこっちから行って受け取ろうということになりました。そのついでに、鉄砲も買って来ようというような事で、そのとき派遣の委員長に命ぜられたのは、小野友五郎(おのともごろう)。この人は御勘定吟味役(ごかんじょうぎんみやく)という役目で御勘定奉行の次席、なかなか時の政府においては権力もあり、地位も高い役人でありました。その人が委員長を命ぜられて、その副長には松本寿太夫(まつもとじゅだいふ)という人が命ぜられたということが、その前年の冬に決まりました。それから、私もモウ一度行ってみたいものだと思って、小野の家に度々行って頼みました。何卒(どうぞ)一緒に連れて行ってくれないかといったところが、連れて行こうということになって、私は小野に随従(ずいじゅう)して行くことになりました。そのほか同行の人は、船を受け取るのですから、海軍の人も両人ばかり、また通弁(つうべん)の人も行きました。

太平海の郵便汽船始めて通ず

この時には、亜米利加(アメリカ)と日本との間に太平海の郵便船が初めて開通した年で、第一着に日本に来たのがコロラドという船で、その船に乗り込みました。前年、亜米利加(アメリカ)に行った時には、小さな船で海上三十七日も掛かったのですが、今度のコロラドは、四千噸(トン)の飛脚船で、船中の一切万事、実に極楽世界で、二十二日目に桑港(サンフランシスコ)に着きました。着いたけれども、今とは違ってその時分はマダ鉄道のないときで、パナマに廻(まわ)らなければならぬから、桑港(サンフランシスコ)に二週間ばかり逗留(とうりゅう)して、そこで太平洋汽船会社の別の船に乗り替えてパナマに行って、蒸気車に乗ってあの地峡(ちきょう)を越えて、向こう側に出て、また船に乗って、丁度三月十九日に紐育(ニューヨーク)に着き、華聖頓(ワシントン)に落ち付いて、取り敢えず、亜米利加(アメリカ)の国務卿に会って、例の金の話を始めました。その時の始末でも、幕府の模様がよく分かります。こっちを出立(しゅったつ)する時から、先方の談判には八十万弗(ドルラル)渡したという受取がなければならぬということは良く分かっていました。ところが、どうもまるでちょいとした紙切に十万とか五万とか書いてあるものが、何でも十枚もあります。その中には、しかも三角の紙切れに僅かに何万弗(ドル)受取と記して、ただプラインという名ばかり書いてあるのが何枚もあるのです。何のために、どうして受け取ったという約定(やくじょう)もなければ何にもないのです。ただ、金を受け取ったというだけの印ばかりであります。代言流義に行けば、誠に薄弱な殆(ほと)んど無証拠といってもいいくらいです。ソコで、その事については、出発前に随分(ずいぶん)議論しました。かえって、これが良かったようです。こっちでは一切万事、亜米利加(アメリカ)の公使というものを信じ抜いて、イヤ、亜米利加(アメリカ)の公使を信じたのではない。日本の政府が亜米利加(アメリカ)の政府を信じたのだ。書き付けも要らなければ、条約も要らない。ただ、口で受け取ったら、受け取ったというだけで沢山(たくさん)だ。これは、ただ覚え書きに数を記しただけの事。もとより、こんな物は証拠にしないという風に出ようと相談を決めて、あっちへ行ってからその話に及ぶと、すぐに前の公使プラインが出て来ました。出て来ても何も言わないので、こちらから

「ドウですか、船を渡すなり、金を渡すなり、どちらでもいいですよ。」

と、文句なしに立派に出掛けて来ました。

吾妻艦を買う

まず、これで安心であるとしたところで、こっちでは軍艦が一艘欲しいのです。それから、諸方の軍艦を見てまわって、これがよかろうといって、ストーンウオールという船、ソレが日本に来て、東艦(あずまかん)となりました。この甲鉄艦を買うことにして、そのほか小銃何百挺(ちょう)か何千挺か、買い入れたけれども、ソレでもマダ金があっちに七、八万弗(ドルラル)残っていました。これは、亜米利加(アメリカ)の政府に預けておいて、その船を廻航(かいこう)するについて、私共は先に帰ったのですが、海軍省から行った人はアトに残って、そうして亜米利加(アメリカ)の船長を一人雇ってこっちに廻航(かいこう)することになって、それで事が済みました。丁度、船が日本に着いたのは、王政維新の明治政府になってから、すなわち、明治元年でありますが、その事について、当時会計を司っていた由利公正(ゆりきみまさ)さんに会って、後に聞いたところが、ドウもあの時、金を払うには誠に困ったらしく、明治政府には金がなかったそうです。どうやら、こうやら、ヤット何十万弗(ドル)拵(こしら)えて払ったという話を私が聞いて、ソレは大間違いだ。マダ幾らか金が余って、あっちに預けてある筈(はず)だ、と言ったら、そうかと言って、由利(ゆり)は大造(たいそう)驚いていました。どこにドウなったか、二重に金を払ったことがありました。亜米利加(アメリカ)人が取るわけはない。どこかに仕舞い込んでしまったに違いないです。

幕府人の無法を厭う、安いドルラル

それはさて置き、私の一身について、その時、甚だ穏やかならぬ事がありました。というのは、私は幕府の用をしているけれども、いかなこと、幕府を助けなければならぬとかいうような事を考えたことがありません。私の主義にすれば、第一鎖国が嫌い、古風の門閥(もんばつ)の無理圧制が大嫌いで、何でもこの主義に背く者は皆、敵のように思うから、こっちが思う通りに、先方(さき)の鎖国家、古風家もまた洋学者を外道(げどう)のように憎むでしょう。ところで、私が幕府の様子を見るに、全く古風のそのままで、少しも開国主義と思われないのです。自由主義と見えない。例えば年来、政府の御用達三井八郎右衛門(みついはちろうえもん)で、政府の用を聞くのみならず、役人等の私用をも周旋(しゅうせん)するのが慣行でした。ソコで、今度の米国行きについても、役人が幕府から手当ての金を一歩銀で受け取れば、亜米利加(アメリカ)に行くときには、これを洋銀の弗(ドルラル)に替えなければなりません。しかるに、その時は弗(ドル)相場の毎日変化する最中で、両替が甚だ面倒でありました。スルト、一行中のある役人が、三井の手代を横浜の旅宿に呼び出し、色々弗(ドル)の相場を聞きだして、さて言うよう、

「成程(なるほど)、昨今の弗(ドルラル)は安くない。しかし、三井にはズットその前安い時に買い入れた弗(ドル)もあるだろう。拙者(せっしゃ)のこの一歩銀(いちぶぎん)はその安い弗(ドル)と両替して貰いたい。」と言うと、三井の手代は平伏して、

「畏(かしこ)まりました、お安い弗(ドル)と両替いたしましょう。」

と言って、いくらか割合を安くして弗(ドル)を持って来ました。私は、そばにいてこの様子を見ていて

ドウモ無鉄砲な事を言う奴だ。金の両替をするに、安いときに買い入れた金といって、ドウいう印があるか。安いも高いも、その日の相場に決まったものを、それを相場外れにせよと言いながら、恥ずる気色(けしき)もなく、平気な顔をしているのみならず、その人の平生(へいぜい)も賤(いや)しからぬ立派な士君子であるとは驚きました。また、三井の手代も算盤(そろばん)を知るまいことか、チャント知っていながら平気で損をしているのか、何とも言わないのです。畢竟(ひっきょう)、人の罪でない、時の気風の然(しか)らしむるところ、腐敗の極度だ。こんな政府の立ち行こうはずはないと思ったことがあります。

御国益論に抵抗す

それから、私共が亜米利加(アメリカ)に行ったところで、その時に日本は国事多端(たたん)の折柄(おりから)、徳川政府の方針に万事倹約は勿論(もちろん)、仮令(たとい)政府であろうとも、利益あることには着手せねばならぬというので、その掛(かかり)の役人を命じて御国益掛(ごこくえきがかり)というものが出来ました。種々(しゅじゅ)様々な新工夫の新策を奉(たてまつ)る者があれば、ソレを政府に採用していろいろな工夫をするのです。例えば、江戸市中のどこの所に掘割(ほりわり)をして通船(かよいせん)の運上(うんじょう)を取るがよろしいという者もあり、また、あるいは新川(しんかわ)に入る酒に税を課したらよかろうとか、どこの原野の開墾(かいこん)を引き受けて、ソレで幾らかの運上を納めようという者もあり、またある時、江戸市中の下肥(しもごえ)を一手に任せてその利益を政府で占めようではないかという説が起おこりました。スルト、ある洋学者が大に気炎を吐いて、政府が差配人さはいにん)を無視して下肥(しもごえ)の利を専(もっぱ)らにせんとは、これは所謂(いわゆる)圧制政府である。昔し、昔し、亜米利加(アメリカ)国民はその本国、英の政府より輸入の茶に課税したるを憤(いきどお)り、貴婦人達は一切、茶を喫(のま)ずして、茶話(ちゃわ)会の楽しみをも廃したということを聞きまいした。そうであれば、我々もこの度は米国人の顰(ひん)に傚(なら)い、一切の上圊(じょうせい)を廃して政府を困らしてやろうではないか。この発案の可否如何(いかん)とて、一座大笑(たいしょう)を催(もよお)したことがあります。政府の事情がおよそこういう風であるから、今度の一行中にも例の御国益掛(ごこくえきがかり)の人がいて、その人の腹案に、今後日本にも次第に洋学が開けて原書の価(あたい)は次第に高くなるに違いない。よって、今この原書を買って持って帰って売ったら何分かの御国益になろうと言うので、私にその買入方を内命したから、私は容易に承知しませんでした。

「原書買い入れは甚だよろしい。日本には原書が払底(ふってい)であるから、一冊でも余計に輸入したいと思うところに、幸いなるかな。今度米国に来て官金をもって沢山(たくさん)に買い入れ、日本に持って帰って原価でドシドシ売ってやろう。左様(そう)なれば誠にありがたい。いかようにも勉強して、安いもの、適当なものを買い入れよう。この儀はどうで御座る。」と尋ねると、

「イヤ左様(そう)ではない。自(おの)ずから御国益(ごこくえき)にするつもりだ。」と言うのです。

「左(さ)すれば、政府は商売をするということだ。私は商売の宰取(さいとり)をするために来たのではない。けれども政府が既(すで)に商売をすると切って出れば、私も商人になりましょう。その代わりにコンミツション(手数料)を思うさま取るがドウだ。いずれでもよろしい。政府が買ったままの価(あたい)で売ってくれるといえば、私はどんなにでも骨を折って、本を吟味して値切りに値切って安く買って売ってやるようにするが、政府が儲るといえば、政府にばかり儲けさせない。私も一緒に儲ける。サア、ここが官商分かれ目だ。いかがで御座(ござ)る。」

と捻じ込んで、大変喧(やかま)しい事になって、大に重役の歓心を失ってしまいましたが、今日より考えれば、事の是非に拘(かか)わらず、随行の身分にして甚だよくない事だと思います。

幕府を倒せ

それからまた、こういう事がありました。同行の尺振八(せきしんぱち)などなど、飲みながら壮語快談、ソリャもう官費の酒だから、船中の事で安くはないが何に構うものか。ドシドシ飲み次第、食い次第で、さっさと酒を注文して部屋に取って飲む。サアそれからいろいろな事を語り出して、

「ドウしたってこの幕府というものは潰さなくてはならぬ。抑(そ)も、今の幕政の様(ざま)を見ろ。政府の御用といえば、何品(なにしな)を買うにも御用だ。酒や魚を買うにも自分で勝手な値を付けて買っているではないか。上総房州から船が入ると、幕府の御用だといって一番先にその魚を只(ただ)で持って行くようなことをしている。ソレも将軍様が食うならばマアいいとするが、そうではない。料理人とかいうような奴が只(ただ)で取っていって、その魚をまた売っているではないか。この一事推して他を知るべし。実に鼻持ちのならぬ政府だ。ソレもよいとしておいて、この攘夷はドウだ。自分がその局に当たっているから拠(よ)んどころなく渋々と開国論を唱えていながら、その実を叩(たた)いて見ると攘夷論の張本だ。あの品川の海鼠台場(なまこだいば)、マダあれでも足りないと言って拵(こし)らえ掛けているではないか。それからまた、勝麟太郎(かつりんたろう)が兵庫に行って、七輪見たような丸い白い台場を築くなんて何だ。攘夷の用意をするのではないか。そんな政府なら叩き潰して仕舞うがよいじゃないか。」と言うと、

尺振八(せきしんぱち)が、「そうだ、その通りに違いない。けれども、こうして船に乗って亜米利加(アメリカ)に往来するのも、幕府から入用(にゅうよう)を出していればこそだ。御同前(ごどうぜん)に食っているものも、着ているものも幕府の物ではないか。それを衣食していながら、ソレを潰すというのは何だか少し気に済まないようではないか。」

「それは構わぬ。御同前(ごどうぜん)にこの身等(ら)が政府の御用をするというのは、何も人物がエライといって用いられているのではない。これは横文字を知っているからというに過ぎない。」

穢多に革細工

これをたとえば、革細工(かわざいく)だから穢多(えた)にさせるというのと同じ事で、マア御同前(ごどうぜん)は雪駄(せった)直しみたいなものだ。幕府の殿様方は汚い事が出来ないが、幸い、ここに革細工をする奴がいるから、ソレにさせろというので、デイデイが大きな屋敷の御出入(おでいり)になったのと少しも違わない。ソレに、遠慮会釈も糸瓜(へちま)も要るものか。颯々(さっさ)と打毀(ぶちこわ)してやれ。ただ、ここで困るのは、誰がこれを打毀(ぶちこわ)すか。ソレに当惑している。乃公等(おれら)は自分でその先棒(さきぼう)になろうとは思わぬ。誰がこれを打毀(うちこわ)すか。これが大問題である。今の世間を見るに、これを毀(こわ)そうといって騒いでいるのは、所謂(いわゆる)浮浪の徒だ。即(すなわ)ち、長州とか薩州とかいう、攘夷藩の浪人共である。もしも彼(か)の浪人共が天下を自由にするようになったら、ソレこそ徳川政府の攘夷に上塗りをする奴じゃないか。ソレよりも、マダ今の幕府の方がましだ。けれども、どうしたって幕府は早晩(そうばん)倒さなければならぬ。ただ、差し当たり倒す人間がないから仕方なしに見ているのだ。困った話ではないか、などなど、且(か)つ飲み、且つ語り、部屋の中とはいいながら、人の出入りを止めるでもなし、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)、大きな声でドシドシ論じていたのだから、そういうような話もチラホラ重役の耳に聞こえたことがあるに違ちがいない。

謹慎を命ぜらる

サア、それから江戸に帰ったところが、前にもいった通り、私は幕府の外務省に出て飜訳(ほんやく)をしていたのでありますが、外国奉行から咎(とがめ)められました。ドウも貴様は亜米利加(アメリカ)行きの御用中不都合があるから引っ込こんで謹慎せよというのです。勿論(もちろん)、幕府の引っ込めというのは誠に楽なもので、外に出るのは一向に構いません。ただ、役所に出さえしなければよろしいのであるから、一身のためには何ともないのです。かえって、暇になってありがたいくらいのことだから、命令の通り直ぐ引っ込んで、その時に「西洋旅案内」という本を書いていました。

福澤の実兄薩州に在り

亜米利加(アメリカ)から帰って日本に着いたのはその年の六月下旬でした。天下の形勢は次第に切迫して、なかなか喧(やかま)しかったです。私は、ただ家に引きこもって生徒に教えたり、著書飜訳(ほんやく)したりして、何も騒ぎはしませんが、世間ではいろいろな評判をしていました。段々聞くと、福澤の実兄は鹿児島に行っているとか何とかいう途方もない評判をしています。兄が薩藩に与(く)みしているから弟も変だというのは、私がややもすれば幕府の攘夷論を冷評して、こんな政府は潰すがいいなど言うから、自(おの)ずからそんな評判も立つのでしょうが、何はさておき、十余年前にこの世を去った兄が鹿児島にいるわけもなく、俗世界の流言として、いささかの弁解もせず、また幕府に対しても所謂(いわゆる)有志者中には種々(しゅじゅ)様々の奇策、妙案を建言(けんげん)する者が多い様子なれども、私は一切関係せず、ただ独り世の中を眺めているうちに、段々時勢が切迫して来て、ある日、中嶋〔島〕三郎助(さぶろうすけ)という人が私のところに来て、

「ドウして引っ込んでいるか。」

「こうこういう次第で引っ込んでいる。」

「ソリャァどうも飛んだ事だ、この忙しい世の中にお前達が引っ込んでいるということがあるか。すぐ出ろ。」

「出ろッたって、出さぬものを出られないじゃないか。」

「よろしい、拙者がすぐに出してやる。」

といって、それからその時に稲葉美濃守(いなばみののかみ)という老中がいて、ソコへ中嶋が行って、福澤を引っ込ましておかないで出すようにしたらよかろうというような事を言って、それから再び出ることになりました。その美濃守(みののかみ)というのは旧淀藩士で、今日は箱根塔沢(とうのさわ)に隠居しているあの老爺(おじいさん)のことで、中嶋三郎助(なかじまさぶろうすけ)は旧浦賀与力(よりき)、箱館の戦争に父子共に討死した立派な武士で、その碑は今、浦賀の公園に立っています。

長官に対して不従順

全体、今度の亜米利加(アメリカ)行きについて、斯(か)く私が擯斥(ひんせき)されたというのは、何か私が独りいいようにあるけれども、実を申せばそうでありません。というのは、元は、私は亜米利加(アメリカ)に行きたい、行きたいと言って、小野友五郎(おのともごろう)に頼み、同人の信用を得て随行員となった一人であれば、一切万事長者の命令に従い、その思う通りの事をしなければ済まないわけです。ところが、実際はそうではなく、始終、逆らうような事をするのみか、明らかに命令に背いたこともありました。例えば、この在留中、小野も立腹したと見えて、私に向かって、最早、御用も済みたれば、お前は今から先に帰国するがよろしいと言われて、私は不服でした。

「ここまで連れて来て散々御用を勤めさせて、用が少なくなったからといって途中で帰れという権力は長官にもなかろう。私は日本を出るとき閣老(かくろう)にお暇乞(いとまご)いをして出て来た者である。早くいえば、御老中から言いつけられて来たのだ。お前さんが帰れと言っても私は帰らない。」とリキンダのは、私の方が無法であったでしょう。

またある日、食事の時に私が何かの話のついでに、全体今の幕府の気が知れない。攘夷鎖港とは何の趣意(しゅい)だ。これがために品川の台場の増築とは何の戯(たわぶ)れだ。その台場を築いた者はこのテーブルの中にもいるではないか。こんな事で日本国が保てると思うか。日本は大切な国だぞなどなど、公衆の前で公言したような事は、私の方こそ気違いの沙汰(さた)でありました。なるほど、小野は頑固な人に違ちがいなかった。けれども、私の不従順ということも十分であったから、始終、嫌われたのはもっとも当然で、少しも怨むところはありません。

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