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福翁自伝 12. 雑記

暗殺の患は政治家の方に廻わる

およそ、私共が暗殺を恐れたのは、前に申す通り文久二、三年から明治六、七年頃までのことでしたが、世間の風潮は妙なもので、新政府の組織が次第に整頓して、したがって、執政者の権力も重きを成して、自(おの)ずから威福の行われるようになると同時に、天下の耳目(じもく)は政府の一方に集り、私の不平も、公衆の苦情も何もかも、その原因を政府の当局者に帰して、これに加えるに羨望(せんぼう)嫉妬(しっと)の念を以(もっ)てして、今度は政府の役人達が狙われるようになって来て、洋学者の方は大いに楽になりました。食い違いに岩倉(いわくら)公襲撃の頃からソロソロ始まって、明治十一年、大久保(おおくぼ)内務卿の暗殺以来、毎度の兇変(きょうへん)は皆、政治上の意味を含んでいるから、いわば学者の方は御留主(おるす)になって、政治家のためには誠に気の毒で、万々推察しますが、私共は人に羨(うらや)まれる事がないから、まずもって今日は安心と思います。

剣を棄てゝ剣を揮(ふる)う

私が芝(しば)の源助(げんすけ)町で人を斬ろうと決心した、居合(いあい)も少し心得ているなんていえば、何か武人めいて刀剣でも大切にするように見えるけれども、その実は全く反対で、そうではないどころか、日本武士の大小を丸で罷(や)めてしまいたいというのが私の宿願でした。源助(げんすけ)町のときには、成程(なるほど)双刀を挟(さ)して、刀は金剛兵衛盛高(こんごうびょうえもりたか)、脇差は備前祐定(びぜんすけさだ)、まず相応に切れそうな物でありましたが、その後間もなく、盛高も祐定も家にある刀剣類はみんな売ってしまって、短かい脇差のような物を刀にして御印(おしるし)に挟(さ)していましたが、これについても話があります。ある日、本郷にいる親友、高畑五郎(たかばたけごろう)を訪問して、いろいろ話をしている中に、ふと気が付いてみると、恐ろしく長い刀が床の間に一本飾ってあるから、私が高畑に向いて、あれは居合刀のようだが何にするのかと問えば、主人の言うに、近来世の中に剣術が盛んになって刀剣が行われる。ナニ、洋学者だからといって負けることはない。僕も一本求めたのだとリキンでいるから、私はこれを打ち消し、

「ソレは詰まらない。君はこれをもって威(おど)すつもりだろうが、長い刀を家に置いて、今の浪人者を威(おど)そうといっても、威嚇(おどかし)の道具になりはしない。詰まらぬ話だ。止(よ)しなさい。僕は家にある刀剣はみんな売ってしまって、今挟(さ)しているこの大小二本きりしかない。しかも、その大の方は長い脇差を刀にしたので、小の方は鰹節小刀(かつおぶしこがたな)を鞘(さや)に蔵(おさ)めてお飾りに挟(さ)しているのだ。ソレに君がこんな大造(たいそう)な長い刀を弄(いじく)るというのは、君に不似合だ。止(よ)すがよい。御願いだから止(よ)してくれ。論より証拠。君にはこの刀は抜けないに決まっている。それとも抜くことが出来るか。」

「ソレは抜くことは出来ない、とてもこんな長い物を。」

「ソリャ見たことか。抜けもせぬものを飾って置くという馬鹿者があるか。僕は一切、刀をやめているが、憚(はばか)りながら抜くことは知っているぞ。抜いて見せよう。」

と言って、四尺ばかりもある重い刀を取って庭に下りて、兼ねて少し覚えている居合いあい)の術で二、三本抜いて見せて、

「サア見給たまえ、この通りだ。どうだ、君には抜けなかろう。その抜ける者は疾(と)くに刀を売ってしまったのに、抜けない者が飾って置くとは間違いではないか。これは独り吾々(われわれ)洋学者ばかりでない。日本国中の刀を皆うっちゃってしまうということにしなければならぬ。だから、こんなものは颯々(さっさ)と片付けてしまうがよろしい。君も今から廃刀と決心して、いよいよ飾りに挟(さ)さなければならんというなら、小刀でも何でもよろしい。」と言って、大きに論じた事があります。

扇子から懐剣が出る

これも大抵(たいてい)同時代と思います。幕府の飜訳局(ほんやくきょく)に雇われてそこに出ていた時、ある人が私に話すに、

「近来なかなか面白い扇子(せんす)が流行はやる。鉄扇(てっせん)というものは昔から行われていたが、今はソレが大いに進歩して、ただの扇子(せんす)と見せておいて、その実はヒョイと抜くと懐剣が出て来る。なかなか面白い事を発明した。」

と噂している。ソコで私が大にまぜかえしてやりました。

「扇子の中から懐剣の出るのが何が賞(ほ)めた話だ。それよりも懐剣としておいて、ヒョイト抜くと中から扇子の出るのが本当だ。倒(さかさま)にしろ。そうしたら賞(ほ)めてやる。そんな馬鹿な殺伐な事をする奴があるものか。面白くもない。」

と言って、打ち毀(こわ)した事を覚えています。

幕府が倒れると私はスグ帰農して、それきり双刀を廃して丸腰になると、塾の中でも段々廃刀者が出来る。ところが、この廃刀という事は中々容易な事でない。実を申せば、持兇器をやめるのだから、世間の人は悦びそうなものだが、決してそうでない。私が始めて腰の物なしで汐留(しおどめ)の奥平屋敷に行ったところが、同藩士は大いに驚き、丸腰で御屋敷に出入(しゅつにゅう)するとは殿様に不敬ではないかなどなど議論する者もありました。またあるとき、塾の小幡仁三郎(おばたじんざぶろう)と誰か二、三人で散歩中、その廃刀をどこかの壮士に見咎(とが)められて怖い思いをした事もあります。けれども、私は断然廃刀と決心して、少しも世の中に頓着(とんじゃく)せず、「文明開国の世の中に有難そうに兇器(きょうき)を腰にしている奴は馬鹿だ。その刀の長いほど大馬鹿であるから、武家の刀はこれを名付けて馬鹿メートルというが好(よ)かろう、」などなど放言していれば、塾中にも自(おの)ずから同志がある。

和田与四郎壮士を挑む

明治四年、新銭座(しんせんざ)から今の三田に移転した当分の事と思います。ある日、和田義郎(わだよしろう、今は故人になりました)という人が、思い切った戯(たわぶ)れをして壮士を驚かしたことがあります。この人は後に慶應義塾幼椎舎の舎長として、性質極めて温和、大勢の幼稚生を実子のように優しく取扱い、生徒もまた舎長夫婦を実の父母のように思うという程の人物でありますが、本来は和歌山藩の士族で、少年の時から武芸を志して体格も屈強、ことに柔術は最も得意で、所謂(いわゆる)怖いものなしという武士でありますが、一夕、例の丸腰で二、三人連れ、芝(しば)の松本(まつもと)町を散歩して行くと、向こうから大勢の壮士が長い大小を横たえて大道狭(せま)しとやって来る。スルと和田が小便をしながら往来の真中を歩いて行く。サアこの小便を避けて左右に道を開くか、何か咎(とが)め立てして喰(く)って掛かるか、ここが喧嘩の間一髪。いよいよ掛かって来れば五人でも十人でも投(ほうり)出して殺してしまうという意気込みが、先方の若武者共に分かったか、何にもいわずに避けて通ったという。大道で小便とは今から考えれば随分(ずいぶん)乱暴であるが、乱世の時代には何でもない。こんな乱暴が却(かえ)って塾の独立を保つためになりました。

百姓に乗馬を強ゆ

相手は壮士ばかりではありません。ただの百姓町人に対しても色々試(こころみ)た事があります。その頃、私が子供を連れて江ノ島鎌倉に遊び、七里ヶ浜(しちりがはま)を通るとき、向こうから馬に乗って来る百姓があって、私共を見るや否(いな)や、馬から飛び下りたから、私が咎(とが)めて、

「これ、貴様は何だ。」

と言って、馬の口を押さえて止めると、百姓が怖そうな顔をして頻(しき)りに詫(わ)びるから、私が、

「馬鹿いえ。そうじゃない。この馬は貴様の馬だろう。」

「ヘイ。」

「自分の馬に自分が乗ったら何だ。馬鹿な事するな。乗って行け。」

と言っても中々乗らない。

「乗らなけりゃ打撲(ぶんなぐる)ぞ、早く乗って行け。貴様はそういう奴だからいけない。今、政府の法律では百姓、町人、乗馬勝手次第。誰が馬に乗って、誰に逢っても構わぬ。早く乗って行け。」

と言って、無理無体に乗せてやりましたが、その時、私の心の中で独り思うに、古来の習慣は恐ろしいものだ。この百姓等が教育のないばかりで、物が分からずに、法律のあることも知らない。下々(しもじも)の人民がこんなではしかたがない、と余計な事を案じた事があります。

路傍の人の硬軟を試る

それからまた、こういう面白い事がありました。明治四年の頃でした。摂州(せっしゅう)三田(さんだ)藩九鬼(くき)という大名は、兼ねてから懇意の間柄で、一度は三田に遊びに来いという話もありました。私もその節、病後の身で有馬の温泉にも行ってみたし、かたがた先(ま)ず大阪まで出掛けて、大阪から三田まで、およそ十五里、途中名塩(なしお)に一泊するつもりにして、ソコで大阪に行けばいつでも緒方の家を訪問しないことはない。故先生はいないでも、未亡夫人が私を子のようにして愛してくれるから、大阪に着くと取敢(とりあ)えず緒方に行って、三田に遊び、有馬(ありま)に行くことなども話しましたところが、私は病後でどうも歩けそうにない。駕籠(かご)を貸してやろうといわれるので、その駕籠をつらせて大阪を出立した。頃は旧暦の三、四月、誠によい時候で、私はパッチを穿(は)いて、羽織か何か着て、蝙蝠(かわほり)傘を持って、駕籠(かご)に乗って行くつもりであったが、少し歩いてみるとなかなか歩ける。

「コリャ駕籠(かご)は要らぬ。駕籠屋、先へ行け。おれは一人で行くから。」

といって、たった一人で供もなければ連れもない。話相手がなくて面白くないところから、何でも人に逢って言葉を交えて見たいと思い、往来の向うから来る百姓のような男に向かって道を聞いたら、そのとき私の素振りが何か横風(おうふう)で、むかしの士族の正体が現われて言葉も荒かったと見える。すると、その百姓が誠に丁寧に道を教えてくれて、お辞儀をして行く。こりゃ面白いと思い、自分の身を見れば持っているものは蝙蝠(かわほり)傘一本きりで何にもない。もう一度やって見ようと思って、その次に来る奴に向かって怒鳴り付け、

「コリや待て。向こうに見える村は何と申す村だ。シテ、村の家数はおよそ何軒ある。あの瓦屋の大きな家は百姓か町人か。主人の名は何と申す。」

などなど、くだらぬ事をたたみ掛けて、士族丸出しの口調で尋ねると、その奴は道の側に小さくなって恐れながら御答え申し上げます、というような様子だ。こっちはますます面白くなって、今度は逆さまにやってみようと思い付き、また向うから来る奴に向かって、

「モシモシ、憚(はばか)りながら、一寸(ちょと)ものをお尋ね申します。」

というような口調に出掛けて、相変わらず下らぬ問答を始めました。私は大阪生まれで、また大阪にも久しく寄留していたから、その時には大抵(たいてい)大阪の言葉も知っていたから、すべて奴の調子に合わせてゴテゴテ話をすると、奴は私を大阪の町人が掛け取りにでも行く者と思ったのか、中々横風(おうふう)で、ろくに会釈もせずに颯々(さっさつ)と別かれて行く。そこで、今度はまたその次の奴に横風をきめ込み、まその次には丁寧に出掛け、一切(いっさい)先方の面色(かおいろ)に取捨なく、誰でもただ向こうから来る人間、一匹ずつ一つ置きと決めてやってみたところが、およそ三里ばかり歩く間、思う通りになったが、ソコデ私の心中は甚(はなは)だ面白くない。いかにもこれは仕様のない奴等(やつら)だ。誰も彼も小さくなるなら小さくなり、横風(おうふう)ならば横風でよし。こう、どうも先方の人を見て自分の身を伸縮(のびちぢみ)するような事ではしようがない。推(お)して知るべし地方小役人等(こやくにんら)の威張(いば)るのも無理はない。世間に圧制政府という説があるが、これは政府の圧制ではない。人民の方から圧制を招くのだ。これをどうしてくれようか。捨てようといって、固(もと)より見捨てられる者でない。さればとて、これを導いて俄(にわか)に教えようもない。いかに百千年来の余弊(よへい)とはいいながら、無教育の土百姓がただ無闇(むやみ)に人に謝るばかりならよろしいが、先(さき)次第で驕傲(きょうごう)になったり、柔和になったり、まるでゴムの人形を見るようだ。いかにも、頼母(たのも)しくないと大いに落胆したことがあるが、変われば変わる世の中で、マアこの節はそのゴム人形も立派な国民となって、学問もすれば商工業も働き、兵士にすれば一命を軽んじて国のために水火にも飛び込む。福澤が蝙蝠(かわほり)傘一本でいかに士族の仮色(こわいろ)を使っても、これに恐るる者は全国一人もあるまい。これぞ文明開化の賜(たまもの)でしょう。

独立敢て新事例を開く

私の考えは、塾に少年を集めて原書を読ませるばかりが目的ではありません。如何様(いかよう)にもしてこの鎖国の日本を開いて、西洋流の文明に導き、富国強兵もって世界中に遅れを取らぬようにしたいのです。さりとて、ただこれを口に言うばかりでなく、近く自分の身より始めて、仮初(かりそめ)にも言行齟齬(そご)しては済まぬ事だと、先(ま)ず一身の私を慎み、一家の生活法を謀(はか)り、他人の世話にならぬようにと心掛けていました。さて一方に、世の中を見て文明改進のためにしてみたいと思う事があれば、世論に頓着(とんじゃく)せず、思い切って試みました。例えば、前にも申した通り、学生から授業料の金を取り立てる事なり、武士の魂という双刀を棄てて丸腰になる事なり、演説の新法を人に説いてこれを実地に施す事なり、または著訳書に古来の文章法を破って平易なる通俗文を用いる事なり、およそ、これらは当時の古風家に嫌われる事でありますが、幸いに、私の著訳は世間の人気に役じて渇する者に水を与え、大旱(たいかん)に夕立のしたようなもので、その売れたことは実に驚く程の数でした。時節の悪いときに、ドンな文章家、ドンな学者が何を著述したって何を飜訳(ほんやく)したって、私の出版書のように売れようわけはない。畢竟(ひっきょう)、私の才力がエライというよりも、時節柄がエラかったのであります。また、その時代の学者達が筆不調法であったか、馬鹿に青雲熱(せいうんねつ)に浮かされて身の程を知らず、時勢を見ることを知らなかったか、マアそのくらいの事だと思われます。とにもかくにも、著訳書が私の身を立て、家を成す唯一の基本になって、ソレで私塾を開いても、生徒から僅かばかりの授業料を掻(か)き集めて私の身に着けるようなケチな事をせずに、全く教師等(ら)の所得にすることが出来たその上に、折々(おりおり)、私の財嚢(ざいのう)から金を出して塾用を弁ずることも出来ました。

ところで、私の性質は全体放任主義と言おうか、または、小慾にして大無慾とでも言おうか、塾の事について朝夕、心を用いて一生懸命、些細の事まで種々無量に心配しながら、また一方では、この塾にブラサガッている身ではない、是非とも慶應義塾を永久に遺しておかなければならぬ、という義務もなければ名誉心もないと、初めから安心決定(あんしんけつじょう)しているから、したがって、世の中に怖いものがないのです。同志の後進生と相談して、思う通りに事を行えば、塾中自(おの)ずから独立の気風を生じて世間の反(そ)りに合わぬことも多いのと、また一つには、私が政治社会に出ることを好まずに在野の身でありながら、口もあれば筆もあるから颯々(さっさつ)と言論して、時としてはその言論が政府の癪(しゃく)に障ることもありましょう。実を言えば、私は政府に対して不平はないのです。役人達の以前が、無鉄砲な攘夷家であろうとも、人を困らせた奴であろうとも、一切既往を言わず、ただ今日の文明主義に変化して開国一偏に国事を経営してくれれば遺憾なしと思えども、何かの気まぐれに官民とか朝野(ちょうや)とか、いやに区別を立てて、私塾を疏外し邪魔にして、甚だしきはこれを妨げんなんとケチな事をされたのには少々困りました。今これを言えば話も長し、言葉も穢(きたな)くなるから抜きにして、近年帝国議会の開設以来は官辺(かんぺん)の風(ふう)も大いに改まって、余り酷い事はありません。いずれ、遠からぬ中に双方打ち解けるようになるでしょう。

また、私は知る人のために尽力したことがあります。これは、ただ私の物数寄(ものずき)ばかりで、決して政治上の意味を含んでいるのでも何でもありません。真実一身の道楽と言おうか、慈悲と言おうか、癇癪(かんしゃく)と言おうか、マアそんなところから、大いに働いたことがあります。仙台藩の留守居(るすい)役を勤めていた大童信太夫(おおわらしんだゆう)という人があって、旧幕府時代から私はその人と極(ごく)、懇意(こんい)にしていました。と言っても、その人が蘭学者でもなければ英学者でもない、けれどもとにかくに西洋文明の風(ふう)を好み、洋学書生を愛して楽しみにしているところは、気品の高い名士と申してよろしい。当事、諸藩の留守居(るすい)役でも勤めていれば、芸者を上げて騒ぐとか、茶屋に集まるとか、相撲を贔屓(ひいき)にするとかいうのが江戸の普通の風俗で、大童(おおわら)も大藩の留守居(るすい)だから、随分(ずいぶん)金廻(かねまわ)りもよかったろうと思われるに、絶えてそんな馬鹿な遊びをせず、ただ何でも書生を養ってやるということが面白くて、書生の世話ばかりして、およそ当時仙台の書生で大童(おおわら)の家の飯を喰わない者はなかったでしょう。今の富田鉄之助(とみたてつのすけ)を始め、一人として世話にならない者はない。ところが、幕末の時勢、段々切迫して、王政維新の際に仙台は佐幕論に加担して、たちまち失敗して、その謀主(ぼうしゅ)は但木土佐(ただきとさ)という家老であると定まって、その人は腹を切ってしまったその後で、但木土佐(ただきとさ)が謀主(ぼうしゅ)だというけれども、その実は謀主の謀主がある。ソレは誰だというに、大童信太夫(おおわらしんだゆう)、松倉良助(まつくらしょうすけ)の両人だと、こういうわけで、維新後、その両人は仙台に帰っていたところが、サアその仙台の同藩中の者から妙な事を饒舌(しゃべり)出した。既に政府は朝敵の処分をして事済(ことずみ)になってはいるが、内からそんなことを言い出して、マダ罪人が幾人もあると訴えたからには、マサか捨てても置かれぬというところから、久我大納言(こがだいなごん)を勅使として下向(げこう)を命じた、という政府の趣意(しゅい)は甚だ旨い。この時に、政府は既に処分済の後だから、なるたけ平穏を主として事を好まなかったのです。ソコで、久我(こが)と仙台家とは親類であるから、久我が行けば定めて大目に見るであろう。さすれば怪我人も少ないだろうというために、わざと久我を選んだということは、その時、私も密かに聞きました。政府の略は中々行き届いている。ところが、仙台の藩士があろうことか、あるまいことか、御上使の御下向と聞いて景気を催し、生首を七ツとやら持って出たので、久我も驚いたといいます。そんな事まで仙台藩士がやった。その時に松倉(まつくら)も大童(おおわら)も、いれば危ないから、脊戸口(せどぐち)から駈け出して、東京まで逃げて来ました。というのは、両人ともモウちゃんと首を斬られる中に数えられていたその次第を、誰か告げてくれる者があって、そのまま家を飛び出して東京へ来て潜んでいるその中にも、仙台藩の人が在京の同藩人に対して様々残酷な事をして、既に熱海貞爾(あつみていじ)という男は、ある夜、今そこで同藩士に追い駈けられたと申して、私方に飛び込んで助かった事さえありましたが、この物騒な危ない中にも、大童(おおわら)と松倉(まつくら)はどうやら、こうやら、久しく免れていて、私はもとより懇意(こんい)だから、その居所も知っていれば、私の家にも来るのです。政府の人から見られるのは苦しくありません。政府はそんな野暮はしない。そんな者を見ようともしませんが、何分にも同藩の者がやるので誠に危ない。引き捕えて、これが罪人でございといえば、いかに優しい大目(おおめ)な政府でも、ただ見てはいられない。実に困った身の有様(ありさま)だと、毎度両人と話す中に、私は両人のために同情を表するというよりも、寧(むし)ろ、この仙台藩士の無情残酷ということに酷く腹が立ちました。弱武者の意気地のない癖に酷い事をする奴だ。ドウかしてくれたいものだ、とこう考えたところで、それから私が大童(おおわら)に面会して、ドウか青天白日の身になる工夫がありそうなものだ。私が一つ試みてみよう。何でもこれは一番、藩主を引っ捕えて談ずるが上策だろうと相談して、私は大きに御苦労なわけだけれども、日比谷内にある仙台の屋敷に行って、藩主にお目にかかりたいと触れ込んで、藩主に面会しました。ソコで、私がこの藩主に向かって大に談じられる由縁(ゆかり)のあるというのは、その藩主という者は伊達(だて)家の分家、宇和島(うわじま)藩から養子に来た人で、前年養子になるというその時に、私が与(あずか)って大いに力がある、というのは当時大童(おおわら)が江戸屋敷の留守居(るすい)で世間の交際が広いというので、養子選択の事を一人で担任していて、あるとき私に談じて、

「お前さんのところ(奥平家)の殿様は宇和島から来ている。その兄さんが国(宇和島)にいる。その人の強弱智愚如何(いかん)を聞いてもらいたい。」

と言うから、早速取り調べて返事をして、先(ま)ず大童(おおわら)の胸に落ちて、今度は宇和島家の方に相談をしてもらいたいと言うので、それからまた、私は麻布竜土(りゅうど)の宇和島の屋敷に行って、家老の桜田大炊(さくらだおおい)という人に面会してその話をすると、一も二もなく、本家の養子になろうと言うのだから、ただ有難いとの即答。一切(いっさい)大童(おおわら)と私と二人で周旋して、それから、表向きになってもらったその人が、その時の藩主になっているので、ソコで私がその藩主に会って、

「時に尊藩の大童(おおわら)、松倉(まつくら)の両人が、この間、仙台から逃げて参ったのは、あっちにいれば殺されるから、こっちに飛び出して来たのであるが、あの両人は今でも見付け出せば、藩主において本当に殺す気があるのか。但(ただ)し殺したくないのか。ソレを承(うけたまわ)りたい。」

「イヤ、決して殺したいなどという意味はない。」

「しからば、モウ一歩進めて、お前さんはソレを助けるという工夫をして、ドウかして、命の繋るようにしてやってはいかがで御座(ござる)か。実はお前さんは、大童(おおわら)に向かって、大いに報いなければならぬことがある。知るや知らずや、お前さんが仙台の御家に養子に来たのは、こういう由来、これこれの次第であったが、それを思っても殺すことは出来まい。屹度(きっと)御決答(ごけっとう)を伺いたい。」

と、顔色(がんしょく)を正しくして談じたところが、

「決して殺す気はないが、これは大参事に任してあるから、大参事さえ助けるという気になれば、私には勿論(もちろん)異論はない。」と言う。

マダ若い小供でしたから、何事も大参事に任してあったのでしょう。

「しからば、お前さんは確かだな。」

「確かだ。」

「ソレならばよろしい。大参事に会おう。」と言って、すぐ側(そば)の長屋にいたからそこへ捻込(ねじこ)んだ。

「サア、今藩主に話をして来たがドウだ。藩主は大参事次第だと確かに申された。しからば、則(すなわ)ち、生殺はお前さんの手中にある。殺す気か、殺さぬ気か。仮(よ)しや、殺すつもりで捜し出そうといても、決して出る気遣いはない。私はちゃんと居処を知っている。捜せるなら試みに捜して見るがいい。捕縛すると言うなら私の力の有らん限り、隠蔽(いんぺい)して見せよう。出来るだけ摘発して見なさい。いつまで経っても無益だ。そんな事をして人を苦しめないでもいいだろう。」と、裏表から色々話すと、大参事にも言葉がない。

いよいよ助ける、助けるけれども薩州あたりから何とか口を添えてくれると都合がいいなんて、また弱い事を言うから、よろしいと言い棄(す)てて、それから私は薩州の屋敷に行って、こうこういう次第柄だから助けてやってくれぬかと言うと、大藩とか強藩とか言うので、口を出すのは実は迷惑な話だが、何も難しい事はない。宮内省弁事というものがあるから、その者について政府の内意を聞いてあげるからと言って、薩摩の公用人が政府の内意を聞いて、私のところに報知してくれたには、ともかくも自訴させるがよろしい。自訴すれば八十日の禁錮ですっかり罪は滅びてしまうということが分かった。それから、念のため、私はまた仙台の屋敷に行って、大参事に面会して、政府の方は自訴すれば八十日と決めているが、これにお負けが付きはしないか。自訴と言えばこの屋敷に自訴するのであるが、この屋敷で本藩の私をもって八十日を八年にしてやろうなんというお負けをやりはしないか。ソレを確かに約束しなければ玉は出されないと、念に念を入れて問答を重ね、最後には、もし違約すれば復讐するとまで脅迫して、いよいよ大丈夫と安心して、ソレからその翌日両人を連れて日比谷の屋敷に行った。ところが、屋敷の役所みたいなところには罪人、大童(おおわら)、松倉(まつくら)の旧時(むかし)の属官ばかりが並んでいるだろう。罪人の方が余程エライ。オイ貴様はドウしているのだというような調子で、私は側から見て可笑(おか)しかった。それから、宇田川町の仙台屋敷の長屋の二階に八十日いて、ソレで事が済んで、ソレから二人は晴天白日、外を歩くようになって、その後は今日に至るまでも、もとの通りに交際して互いに文通しています。生涯変わらぬ事でしょう。ただ、この事たるや、仙台藩の無気力、残酷を憤(いきどお)ると同時に、藩中稀有(けう)の名士が不幸に陥りたるを気の毒に感じたからのことで、随分(ずいぶん)彼方此方(あちこち)と歩きまわりましたが、口でいえば何でもないけれども、人力車のある時節ではなし、一切(いっさい)歩いて行かなければならぬから、中々骨が折れました。

それから、榎本(えのもと、当年の釜次郎 かまじろう。今の武揚 たけあき)の話をしましょう。前に申す通りに、古川節蔵(ふるかわせつぞう)は、私の家から脱走したようなもので、後で聞いてみれば、榎本よりか先に脱走したそうで、房州(ぼうしゅう)鋸山(のこぎりやま)とか、どことかにいた佐幕党の人を長崎丸に乗せて、ソレを箱根山に上げて、ソレで箱根の騒動が起こったので、あれは古川節蔵がやったのだと申します。節蔵が脱走した後でもって、脱走艦は追々函館(はこだて)に行って、それから古川(ふるかわ)の長崎丸と一処(いっしょ)に、またこっちへ侵しに来た、というのは、官軍方の東艦(あずまかん)、即ち私などが亜米利加(アメリカ)から持って来た東艦(あずまかん)が官軍の船になっている。ソレを分捕(ぶんどり)しようということを企てて、そうして奥州(おうしゅう)宮古(みやこ)という港で散々戦ったところが、負けてしまって、到頭(とうとう)降参して、それから東京へ護送せられて、その時は法律も裁判所も何もないときで、糺問所(きゅうもんじょ)という牢屋(ろうや)のようなものがあって、その糺問所(きゅうもんじょ)の手に掛かって古川節蔵(せつぞう)と、前年、私が米国に同行した小笠原賢蔵(おがさわらけんぞう)という海軍士官と、二人連れで霞ヶ関の芸州(げいしゅう)の屋敷に監禁されている。ソコで、私は前には馬鹿をするなといって止めたのであるけれども、監禁されているといえば可哀想(かわいそう)だ。幸い、芸州の屋敷に懇意(こんい)な医者がいるから、その医者のところに行って、ドウかして古川に会いたいものだが、会わしてくれぬかといったらば、番人も何もいないようであったが、その医者の取り計らいで会わしてくれました。それから、長屋の暗いようなところに行ってみると、二人がチャンと入っているから、私が先ず言葉を掛けて、

「ザマア見ろ。何だ、仕様(しよう)がないじゃないか。止めまいことか。あれ程、おれが止めたじゃないか。今更言ったって仕方(しかた)はないが、何しろ食い物が不自由だろう。着物が足りなかろう。」

と言って、それから宅に帰って毛布ケットを持って行ってやったり、牛肉の煮たのを持って行ってやったり、戦争中の様子や監禁の苦しさ加減を聞いたりした事があるので、私はよく糺問所(きゅうもんじょ)の有様(ありさま)を知っています。

ところが、榎本釜次郎(えのもとかまじろう)だ。釜次郎は節蔵(せつぞう)よりか少し遅れてこっちに帰って来て、同じく糺問所(きゅうもんじょ)の手に掛かっている。ところが、頓(とん)と音(おと)づれが分からない。というのは、私は榎本(えのもと)という男は知っていることは知っている。途中で会って、一寸(ちょい)と挨拶したぐらいな事はあるが、一緒に相対(あいたい)して共に語り共に論ずるというような深い交際はない。だから余り気に止めていなかった。ところが、この榎本という、一体の大本(おおもと)をいうと、あの阿母(おっか)さんという人は、素(もと)一橋家御馬方(おんまかた)で林代次郎(はやしだいじろう)という、日本第一乗馬の名人といわれた大家の娘で、この婦人が幕府の御徒士(おかち)の榎本円兵衛(えんべえ)という人に嫁して設けた次男が榎本釜次郎です。ソコで、その林の家と私の妻の里の家とは、回縁(かいえん)の遠い続合(つづきあい)になっているから、ソレで前年中は榎本の家内の者も此方(こちら)に来たことがある。また、私の妻も、小娘のときには祖母(おばあ)さんに連れられて、榎本の家に行ったことがあるというので、少し往来の道筋が通っていて、全く知らぬ人でない。ところが、榎本(えのもと)が今度、糺問所(きゅうもんじょ)の手に掛かっていて、その節(せつ)、榎本の阿母(おっか)さんも、姉(あね)さんも、お内儀(かみ)さんも静岡にいるが、一向、釜次郎(かまじろう)のところから便りがないので、大いに案じていると、丁度その時に榎本の妹の良人(おっと)に、江連(えづれ)加賀守(かがのかみ)という人があって、この人は、素(もと)幕府の外国奉行を勤めていて、私は外国方(がいこくがた)の飜訳方であったからよく知っている。ソコで、江連(えづれ)が静岡から私のところに手紙を寄越して、榎本はこの節どうしているだろうか。頓(とん)と便りがないので、母も姉も家内も日夜案じている。何でも、江戸に来ているという噂は、風の便りに聞いたけれども、ソレも確めることが出来ない。それについて、江戸に親戚、身寄の者に問い合わせたけれども、嫌疑(けんぎ)を恐れてか、ただの一度も返辞(へんじ)を寄越した者がない。ソコで、君のところに聞きにやったら、何か様子が分かるだろうと思うが、ドウぞ知らしてくれぬかということを、縷々(こまごま)と書いて来ました。ところで、私はその手紙を見て先(ま)ず立腹したと申すは、榎本はともかくも、その親戚、身寄の者が、江戸にいながら嫌疑を恐れて便りをしないとは卑劣な奴だ。薄情な奴だ。実に幕府の人間は皆こんな者だ。よし、おれが一人で引き受けてやる、という心が頭に浮んで来て、加うるに、私は古川節蔵(ふるかわせつぞう)の一件で糺問所(きゅうもんじょ)の様子を知っているから、スグ江連(えづれ)の方へ返辞を出し、榎本は今、糺問所(きゅうもんじょ)に入っている。殺されるか、助かるか、ソリャどうも分からない。分からないけれども、何しろ煩(わずら)いもしなければ、何もせずに無事にいるので御座(ござ)る。その事を阿母(おっか)さん始め、皆さんへ伝えてくれよといってやると、また重ねて手紙を寄越して、老母と姉が東京に出たい、と言うが上京してもよろしかろうかと言って来たから、颯々(さっさつ)と御出(おいで)なさい。私方に嫌疑(けんぎ)もなんにもない。公然と出て御出(おいで)なさいと返辞(へんじ)をすると、間もなく老人と姉さんと母子二人出京して、ソレから糺問所(きゅうもんじょ)の様子も分かり、差入物(さしいれもの)などしている中に、阿母(おっか)さんが、是非、釜次郎(かまじろうに)逢いたいと言い出した。ところが、法律も何もない世の中で、どこに訴えて、どうしようという方角が分からない。ソコで、私が一案を工風して、老母から哀願書を差し出すことにして、私が認(したた)めた案文のその次第は、

「云々(うんぬん)今般(こんぱん)、倅(せがれ)、釜次郎、犯罪の儀、誠にもって恐れ入ります。同人事は、実父の円兵衛(えんべえ)存命中、斯様(かよう)々々、至極(しごく)孝心深き者で、父につかえて平生は云々、またその病中の看病は云々、私は現在ソレを見ています。この孝行者に、この不忠を犯すはずはない。あれに限って、悪い根性の者では御在(ござい)ません。ドウゾ御慈悲に御助けを願います。私はモウ余命もない者で御座(ござ)るから、いよいよ釜次郎を刑罰とならば、この母を身代わりとして殺して下さい。」

という趣意(しゅい)で、分からない理窟(りくつ)を片言交じりにゴテゴテと厚かましく書いて、姉さんのお楽さんに清書をさせて、ソレからお婆さんが杖をついて哀願書を持って糺問所(きゅうもんじょ)に出掛けたところが、コレは余程、監守の人を感動させたと見え、固(もと)よりこんな事で罪人が助かるわけはないが、とうとう仕舞(しまい)に獄窓(ごくそう)を隔てて母子面会だけは叶いました。それこれする中に、ここに妙な都合のよい事が出来ました。その次第は、榎本(えのもと)が箱館(はこだて)で降参のとき、自分がかつて和蘭(オランダ)在留中、学び得たる航海術の講義筆記を秘蔵している、その筆記の蘭文の書を、国のためにとて、官軍に贈って、その書が官軍の将官、黒田良助(くろだりょうすけ、黒田清隆)の手にあるということを聞きました。ところで、人は誰か忘れたが、ある日、その書を私方に持参して、何の書だか分からぬが、この蘭文を飜訳(ほんやく)してもらいたい、と言うから、これを見れば、兼ねて噂に聞いた榎本の講義筆記に違いない。これは面白い、と思い、蘭文飜訳は易(やす)いことであるのを、私は先方に気を揉ませるつもりでわざと手を着けない。初めのほう四、五枚だけ丁寧に分かるように飜訳して、原本に添えて返してやって、これはいかにも航海にはなくてはならぬ有益な書に違いない、巻初の四、五枚を見ても分かる。ところが、版本の原書なれば飜訳も出来るが、講義筆記であるからその講義を聴聞した本人でなければ何分にも分かり兼ねる。誠に惜しい宝書で御座(ござ)ると言って、私は榎本の筆記と知りながら、知らぬ風をして、ただ飜訳の云々で気を揉まして、自然に榎本の命の助かるように、いわば伏線の計略を運(めぐ)らしたつもりであります。また、その時代には黒田も私方に来れば、私も黒田の家に行ったこともあります。いつか、どこか、時もところも忘れましたが、払が黒田に写真を贈ったことがあるその写真は、亜米利加(アメリカ)の南北戦争、南部敗北のとき、南部の大統領か大将か何でも有名の人が婦人の着物を着て逃げ掛けている写真で、私がその前年、亜米利加(アメリカ)から持って帰って一枚あったから、黒田に贈って、これは亜米利加(アメリカ)の南部の何という人で、逃げる時にこういう姿で逃げたという、敢えて命を惜しむでもなかろうけれども、また一方から言えば、命は大切な者だ、何としても助かろうと思えば、かく見苦しい姿をしても逃げるのが当然(あたりまえ)の道である。人間というものは、一度(ひとたび)命を取れば、後で幾ら後悔しても取り返しが付かない。ドウも、榎本(えのもと)は大変な騒ぎをした男であるが、命だけは取らぬようにした方が得じゃないか。何しろ、この写真を進上するから御覧(ごらん)なさいと言って、こまやかに話したこともあります。そうしたところで、ドウやら、こうやらする間に、いよいよ助かることになりました。けれども、その助かるというのは固(もと)より、私の周旋(しゅうせん)したばかりで、助かったというわけではない。その時の真実、内情の噂を聞けば、長州勢はドウも榎本等を殺すような勢いがあった。ソコで、薩州の藩士がソレを助けようという意味があったというから、長州勢に任せたら、あるいは殺されたかも知れぬ。いずれ、大西郷(さいごう)などがリキンでとうとう助かるようになったのでしょう。これは、私のためには大童信太夫(おおわらしんだゆう)よりか、余程(よほど)骨の折れた仕事でした。かれこれする中に、私が煩(わずら)い付ついて、その事は病後まで引張っていて、病気全快に及ぶというときだから、明治三年にいよいよ放免になりましたが、ただ残念で気の毒なのは、阿母(おっか)さんは、愛子(あいし)の出獄前に病死しました。

ところが、前申す通り、榎本釜次郎(えのもとかまじろう)と私とは、刎頸(ふんけい)の交りというわけではなし、何もそんなに力を入れる程の親切のあろうわけもない。ただ、仙台藩士の腰抜けを憤(いきどお)ったと同じ事で、幕府の奴の、いかにも無気力、不人情ということが癪(しゃく)に障(さわ)ったので、ソコで、どうでもこうでも助けてやろうと思って駈けまわりましたが、その節(せつ)、毎度、妻と話をして今でも覚えています。私の申すに、さて榎本のために、今日はこの通りに骨を折っているが、これはただ、人間一人の命を助けるばかりの志で、ほかになんにも趣意(しゅい)はない。元来(がんらい)、榎本という男は深く知らないが、随分(ずいぶん)何かの役に立つ人物に違いはない。少し気色(けいろ)の変わった男ではあるが、何分にも出身が幕府の御家人(ごけにん)だから殿様好きだ。今こそ牢(ろう)に入っているけれども、これが助かって出るようになれば、後日、あるいは役人になるかも知れぬ。その時は、例の通りの殿様風でぴんぴんするような事があるかも知れない。その時になって、殿様のぴんぴんを見たり聞いたりして、ヤレ昔を忘れて厚かましいだの、可笑(おか)しいだのという念が、兎(う)の毛ほども腹の底にあっては、これは榎本の悪いのでなく、こっちの卑劣というものだから、そんな事なら私は今日、ただ今から一切(いっさい)の周旋(しゅうせん)を止めるがドウだ、と妻に語れば、妻も私と同説で、そんな浅ましい、卑しい了簡は決してないと申して、夫妻固く約束したことがあるが、後日に至って、私の言った通りになったのが面白い。榎本(えのもと)が、段々立身して公使になったり、大臣になったりして立派な殿様になったのは、私が占八卦(うらないはっけ)の名人のようだけれども、私のところには、チャント説が決まっていて、一切(いっさい)の事情を知る者は、私と妻と両人よりほかにないから、榎本がドウなろうと、私の家で噂をする者もない。子供などは今度のこの速記録を見て始めて合点(がてん)するでしょう。




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