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私にとっての「ここじゃない世界に行きたかった」

私にとっての「ここじゃない世界に行きたかった」

 塩谷舞さんの「ここじゃない世界に行きたかった」を読み終えて、そういえば私も「ここじゃない世界に行きたかった」と思っていた時期があったことを思い出しました。塩谷舞さんの素敵な本には遠く及びませんが、せっかく思い出したので記しておきます。


 私は、子供の頃からプラモデルや工作が好き。中学校までは理系のセンスを生かして勉強には特に苦労もしなかったものの、体育や音楽、家庭科などの実技系は、才能もなく興味もないのでオール3。

 でもなぜか定期テストより模試や入試などの本番の試験には強かったので、高校は内申が悪くて無理だといわれた一番の進学校になぜか合格。

 しかし、進学校っていうのはあちこちの中学校から秀才が集まってくるわけで、気が付いたら真ん中以下の成績にうずもれてしまいます。

 そんなもやもやした高校時代、今から考えると何不自由なく暮らしていたのに、家族が上から目線でうっとおしいと感じてしまい、「ここじゃない世界」に行きたくて、東京の大学に進学することにしました。地元の国立大学の入試に白紙の答案を出すという、卑怯な手も使って。

 そんなにまでして進んだ東京の大学ですが、特に目的もなく進学したのですぐに「なにをすればいいんだろう」と行き詰ってしまいます。授業も休みがちで単位をたくさん落とし、1年の終わりに成績表をもらって愕然。

 そこでとりあえず「単位は最低限の数でいいから成績だけはよくしておこおう」という目標を立てました。幸いうちの大学は卒業に必要な単位が少なかったので、Aが取れそうにない教科は早々と捨て、Aの取れそうな教科、必修の教科を必死で勉強するという作戦。これで2年からの大学生活にようやくエンジンがかかりました。

 就職は、「大手は大変そうなので中堅どころ」という安易な考えで会社を選び、学校推薦をもらいました。2年から頑張って成績はよかったので学校推薦は簡単に採れ、就職担当からは「ここに落ちたらもっといい会社を推薦してあげるよ」なんて言われたりして。

 当時は学校推薦さえあれば、大した試験もなく面接をちょっとやったぐらいで即OKという、今から見れば夢のような時代で、そのまま就職。ただ入社したその会社が、あれよあれよという間に大きくなってしまったのはちょっとした誤算です(笑)

 会社では設計を15年ぐらいやったところで行き詰まり、1月ほど休職。このときは「ここじゃない世界に行きたい」どころか、なにしたくない状態でした。

 産業医の先生の面談や復職プログラムなど福利厚生がしっかりした会社だったので、しばらく休んでから別の部署で復職。3人しかいない小さな部署でしたがそこのA部長さんにアシスタント的な仕事でリハビリさせてもらいました。まわりは部長クラスの偉い人でしたが皆さん出来た人で私の意見を聞いてくれたり、自由に仕事をやらせてもらったりして、だんだんとやる気が出てきました。

 でも人事異動でその部署がなくなって別の部署に移ると、いまいち「なにをやりたい」という目標がないまま人と人との調整ですり減り、「ここじゃない」んじゃないかと、またももやもや。

 そんなときまた別の部署のB部長さんに引っ張ってもらい知財の仕事に。このとき「入社して約20年、ついに天職に巡り合った」と感激しました。

 なんせ、他人の考えた発明がわかりやすい文章で読める仕事、設計を離れてしまって自分ではもう新しい発明はできないけれど、紙をめくればいくらでも新しい発明に触れることができるんです。ここではけっこう頑張って昇進もさせてもらいました。

 しかし会社の景気が悪くなってお金を節約する仕事ばかりになり、思うような仕事ができなくなってしまい、またまた「ここじゃない世界」に行きたくなってもやもや。

 たまたま見かけた募集をみて、思い切って転職。同じ知財系でステップアップして今に至ります。

 私が行きたかった「ここじゃない世界」は、「自分で考えてやりたいことを見つける」世界なんでしょうか。


「マグロはいつも泳いでいないと死んでしまうんだよ」
と言われますが、私も、自分でやりたいことを考えてやっていないと、よどんで死んでしまうのかもしれません。


#ここじゃない世界に行きたかった
#塩谷舞


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