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ブルースターを一輪買った。家用の花を買うのは、何年ぶりかになってしまった。生田に住んでいる時、帰り道に花屋があったので、よく寄ったのを思い出した。

花屋の夫婦はどちらも程よく日焼けしていて。白いTシャツ、ジーンズにウォレットチェーンがつながる革財布を後ろポケットに入れて。二人とも90年後半のキムタクくらいのロン毛と茶髪のサーファー風な二人で、いつも明るくていいお店だった。

「ブルースターは色が変わっていくから可愛いですよ」と旦那さんから教えてもらったことを思い出す。今回は3週間も咲き続けてくれた。それでもやがて、青から桃色に変わり、枯れていった(白になったりもする。)


「この切り花の移ろいに気がつき、感動しているのは世界で自分しかいないのか」眠れない寒い夜にふと思う。(きっと、子育てしているお母さん、お父さんはこんな瞬間が沢山あるんだろうな。)


その週、クレージージャーというテレビ番組で、吉田勝次さんという洞窟探検家が特集されていた。

人類未到の洞窟に吉田さんたちのクルー4人が、世界で始めて入っていく探検が流れていて、吉田さんがめっちゃくちゃ感動しながら、こんなことをつぶやいていた。

「世界でこの景色見たことあるの、俺たちしかいないんだぜ。めちゃくちゃ感動する」

自分は、なんの努力もせず、旅にも出ていないのに目の前のブルースターに同じようなことを思っていたことに、「なんかすんませんっ」という気持ちになる。

あるいは、吉田さんのような探検家マインドの火種が、まだ自分の中にもあるのかと思って。それならばそこに、うまく薪をくべながら生きるエネルギーに変えていけたらいいなと、勝手に励まされたりした。

さらには、ブルースターのように自分も日々変化しているはずで、それに気づき、美しいとさえ思えたらよいとふと思うことを進めていった。

そのささやかな変化は、生きるために必ず作用している吸って吐いての呼吸の中にさえある。浅かったり深かったり、いびきをかいたり、ため息をついたり、止まったり。そのリズムは一定の範囲内で変化をしつづけている。

気づこうとしなければ気づかないことに気づくこと。見えないその景色に感動できたりできたらよいんだけど。というようなことを、月一回参加している、夜の瞑想会に行って思ったりしている。

「瞑想会、なにか効果感じますか?」と友人に聞かれたのだけれど。なんというか、本を読んだりランニングをしたり、と同じで、月に一度きりのことで、なにか効果を感じることは残念ながら少ないと思う。

というのが、素直な感想だ。でも効果がわからないからといって、価値がないということとは全く違う。

商業的な世界の中で、たった数百mlの飲み物について、その効果を煽られまくって生活している。効果が感じられるかが価値。お金を払い消費するという行動には、何らかの効果が伴う。その概念が、肺を満たす空気のような自然さで、身体の中に入っては出ていっている。

気がついたらヤクルト1000をコンビニで手に取り、話題の新書を読み、そこそこご機嫌になったりする。選んだのか選ばされているのか、わけられなくなっている。

自分が働いていた鮨屋にせよ、タコス屋にせよ、煽られているだけではなく、こちらから煽っていくことになる。

カスタマーレビュー、リピート率、その場で喜んでくれるかどうか。果たして自分の行為には何か相手にとってのプラスの効果があったのか。それを気にしざるを得ない仕組みの中で暮らしている。

もちろんそれが悪なわけではないし、否定することもない。その閉じた世界で、ひとつの仕事に集中できるからこそ、美味しい料理を作ろうと努力ができるし、仲間と繋がれるし、素晴らしいテクノロジー、サービスも生まれていく。

なにより人に喜ばれることができるのは素晴らしいことだ。

だからといって。なんの効果をもたらさない(とされている)場所・時間・人があったとしても、それが素晴らしくない、価値のないものかと言えばそれは違う。

働けなくなって半年経ったここ数週間、焦るし、死にたい気持ちに支配されることもあるけれど、自分が効果を生み出さない状態を受け入れつつある。

今までいた場所とは違う世界にいる。と言う意味では洞窟探検と変わらない日々の中にいて、だからこその考えと行動に辿りつき、瞑想会にも参加して、こんなことをここに書いている。

瞑想会に行くために、例えば、それに向けて20分の瞑想を休憩いれて2回やったりと準備をしたりもするし。ヨーガも続けていて、日々の継続のためのトリガーとしては役立っているが、実際に効果がどんなもので、それが人生でどう左右するか(どんな「効果」があるのか)というのは、人が知れる範囲を超えている。

そのような、言葉にできない知性に重きを置く場所があり、その「場」を守っている人がいて、開かれている場所があるというのは、ありがたいことでとても感謝している。

そして、いつか思い出す。あの時の瞑想会よかったなと。人生なんて変わらなくてもよいし、向上にすることも諦めて。自分の中にブルースターを探すことにする。見つからなくても良い。というくらいでいる。

いろいろな外国の書物や
古い壁画などから
透明な感動を着て出てくることは
ひとつの冷たい努力である
しかし
僕のこの風景に
いつか冬が来た時
(点景人物なども去り)
その感動の重ね着が
僕を暖めてくれることを僕は知っている

神様だけに暖房を頼らずに
寒い北風の冬を過ごすために
僕は自分を燃料にするつもりだ

暖房計画 谷川俊太郎   詩集 十八歳より


ブルースターといえば、リョウザスカイウォーカーが、ブルースターって曲歌ってなかったっけ?と検索したらやっぱり歌ってた。20年前に支えてくれた音楽も、今ではふと思い出すくらい。それでも、ふと思い出すことがあるというのは、素晴らしいことでもあると思う。

つながらざるを得ない特性の中で生きる。

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