見出し画像

小笠原の珊瑚は、はんげつの日に放卵する。


去年読んだ本で、珊瑚の放卵は近縁種が混ざらないように、1,5~3時間ごとに、時間を置いて放卵するということを知った。珊瑚は海中に卵と精子を放出して、それぞれが出会ったら受精し、どこかにたどり着いて、そこでまた新たな珊瑚となって暮らしていく。近くに住む、近縁の珊瑚の種が混ざらないように、珊瑚ごとに卵の放出時間が違うというのだ。

なぜ、どうやって、そうなったのかはわからないけれど、遺伝子に組み込まれている「我が種を残す」という行為が、放卵の時間をずらしているのだ。


その話を、小笠原で知り合った生物の研究をしていた友人に話した。友人は、島で10数年、ウミガメや珊瑚の研究をしていた。今は、東京に引き揚げて、全く別の仕事をしているけれど。またご縁があって仕事でつながり、今はまた、共にご飯を食べるだけの、ただの友人に戻った。

珊瑚の放卵の話をすると。

「それねー、違うんだよ。小笠原の珊瑚は、一斉に放卵するんだよ。すごいよ。俺、産卵の時、毎回潜ってたんだけど。本当にみんな一斉に放卵するんだよ」

「え?じゃあ書いてあるのは、嘘なの?」

「嘘ではないけれど、小笠原では違ったってこと。小笠原の珊瑚は一斉に散乱するんだ。面白いのは、だから小笠原の珊瑚は交雑が多くて。ちょっとずつ混じってるんだよね」

一斉に産卵するせいで、小笠原の珊瑚はどんどん雑種になっているそうだ。それはそれで、作戦なのかどうなのかも、気になるが。

「珊瑚って満月に産卵するんだっけ??」

「それも面白くて、小笠原の珊瑚は、半月に産卵するんだ。」

「へぇ。半月なんだ。」

「多分、小笠原って、周りになにもないから、すぐに深い海になっちゃうでしょ。そっちにだとり着く可能性を減らすために、半月の時に産卵するようになったんじゃないかなと俺は考えているんだけどね。」

「半月の方が遠くに行かないんだ??」

「そうね。満月だと大潮で、遠くまで行っちゃう可能性が高くなるから。半月の方が浅瀬に戻ってこられる可能性が高くなって、生き残れる可能性も増える。」

「へぇすごいね」

「その時、潮の流れを知るために「この手紙を発見したら連絡ください」という漂流手紙を海に流して潮の流れを知ろうと思ったんだけど。満月の時より圧倒的に半月の時の方が手紙が帰ってきてたんだよね」

「うん」

「だから、小笠原では、繁殖しやすくするために半月の時に放卵するようになったんじゃないかなと思ってる。」

「そうなんだ。満月で産卵するっていう定説があるにもかかわらず、半月で産卵するように変わって言ったんだ。すげー!」

「そうだよね。島は火山活動でできているから。歴史で言えば新しい島で。順番でいえば、島ができてから、珊瑚がどこかからたどり着いて。定着したわけだよね。フィリピン沖やポリネシア方面から。」

「うん」

「で。その時に、小笠原まで珊瑚が届くってことはさー、外の大潮の流れに乗ったから、遠くまで届いたはずで、それはきっと、満月で産卵する珊瑚だったはずで」

「もともと半月で放卵する遺伝子の珊瑚ならば、ここまでたどり着かない可能性の方が高い??」

「おそらくね。満月に放卵された珊瑚が島に定着して。突然変異が起きて、半月で放卵する珊瑚が現れて、それが適応して島に残った可能性が高いと、俺は考えているよ」


画像1

あぁ、なんて不思議なんだろう、生物って!!!「知る」って、なんて難しいんだろう。身体で経験したことから、紡ぎ出される言葉の力強さも、またすごい。

生まれつきそこにいた僕と、研究がしたくて小笠原にたどり着いた人が知り合いになってまた再会できたこともすごい。人間は、珊瑚と違い、自由に動き回ることができる。彼は、いろいろな事情で島での研究を諦めて、今、東京で暮らしている。帰りたい気持ちもありながらも、だからこそ、こうやって再会できて、いい時間を過ごせたという喜びもある。

僕たちは生きていく中で、大きくふたつの変化が、訪れる。

・「夢や目標」をかなえようと、自分や環境を意思で変えていく、意図的な変化。
・意図せずにやってくるもの、例えば別れや怪我や病気、今年の夏の天気といった、自分の意思とは関係ないところにある偶然の変化。

ふたつの変化が、折り重なり、奇跡や必然、運命や宿命という言葉で表現されたりするけれど、大きくは意図的な変化と偶然の変化の組み合わせによって、成り立っていると、僕は考えている。

で。地球と、そこに暮らす生命は、偶然の変化の中で、その出来事に適応しながら生きている。

同じ地球に住んでいるけれど、人間は特別に「意図的な変化」を望むようになった。自分にも他人にも世界に対しても。夢を叶えたり、環境を保全したり、平和を求め世界や自分に「意図的な変化」を与えたいと思ったり、成長しようとするようになった。

それでも、偶然の変化の中に生きていることからは逃れられなくて。苦しくなったり悲しくなったりする。

オチはないんだけど。改めて、ヒトって特別な生物だなと思った。

今年の僕は「意図的な変化」を望むは捨てた。体調の不調で、どうせうまくできないだろうから。その代わり、偶然の変化に適応する生き方の感覚をつかみたいとおもう。耳を澄まし、遠くと近くを見つめ、空気の湿度や温度、微かな変化に気がつくこと。それらの変化に反応する自分を身体を観察する。そして、すべての偶然の変化を受け入れられるような状態になりたい。

その中で穏やかにいられたら、自然と意図的な変化、例えば、いきたい場所や好きなこと、やりたいことが、湧き上がってくるのだろうか。「意図的な変化」を望むのは自然側からしたら、不自然なことなのに。それはヒトにとっては自然なことなのかどうか。そんなことを考えているとあっという間に時間が過ぎてしまうのだった。

画像2

一緒に食べた、鰆がおいしかった。
ほんとは、それで、十分なんだけど。




















サポート、熱烈歓迎です。よろしくお願い致します。