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「平川武治のノオトブログ/”The Lepli” アーカイヴー08;

初稿/2004-09-24版:
 あの”アントワープ・王立アカデミー”校の変貌についてです。「変わり始めたモードの新しい環境と風景、アントワープ編」です。
―「過ぎ行かない過去から逃避せよ。」あれほどまでに華やかで創造性に溢れていた筈のこの街のモードも淀みが始まった様です。
文責/平川武治:

「名声は川のようなものであって、軽くて膨らんだものを浮かべ、重くてがっちりしたものを沈める。」/ベーコン随想集。

今日のインデックス;
1)「アントワープが、何か変?パリに近着き過ぎたアントワープ。」;

2)「時代が変わろうとしている兆候はやはり、人心にその根拠があるのでしょう。」


3)「この学校が今、本当にしなければならないことは、生産背景を自国または自分たちの手が届くところで拡大することである。」

4)「巴里は巴里一つでいいのである。アントワープが巴里化する必要はないのだ。」

5)追記/ 

***
1)「アントワープが、何か変?パリに近着き過ぎたアントワープ。」;

 恒例、この街のロイヤルアカデミィの卒業コレクションが今年は6月の17,18,&19日に行われた。結論から言おう、今年も低調だった。
 昨年が悪かったので今年は?という気持ちがあったが昨年よりは良かったのだろうが、正直言って、このままでは数年前にあのバーナード・Wやアンジェロ・Fが出て以来、当分彼らのような逸材は輩出されないだろうと言い切れる。歯に衣を被せない、僕なりの言い方をしてしまえば、”ドリス・V・ノッテン”レベルの学校に成り下がってしまった。(デザインの根幹の違い)と言えようか?
 では、なぜ低調だったか? コレクションの作品において、生徒たちが迷った挙句のコレクションが多かったと感じる。この学校は本当にびっくりさせてくれる、成熟した人間が自由な精神の元で創造する作品に出会う事が出来る、ヨーロッパでも数少ないモード学校の卒業コレクションであった。なのに、昨年と言い今年も「おや、どうしたんだ?」と言ってしまうような、感動するほどの知的な作品も、驚くほどセンスのよいモードな作品も無かった。多分、生徒たちはこの両極の間で迷った挙句のコレクションだったのでは?或いは、教える側が迷ってしまったためだろう。
 アントワープが巴里、モード界で騒がれるようになったのは、やっと10年そこそこである。‘85年に政府観光局がらみで、かの「アントワープ・シックス」が東京へショーをしに来たことがあった。この時はほとんど騒がれず、それ以上に当時の日本人デザイナー、この時期の山本耀司と川久保玲の”黒の旋風”の凄さを目の当たりにして帰国し、以後彼らたちはこの「ヨウジ」と「コムデギャルソン」をお手本に”モノつくり”から”ビジネス”そして”プレスコントロール”までをもしっかりと学習し、切磋琢磨した。その後、巴里のモード界で現在のような名声を得るためには’88年の10月を待たなければならなかった。先輩O.B.であるあのマルタン・マルジェラの登場であった。彼はこのアカデミーを卒業後、J・P・ゴルチェで3年半ほどを働き、独立準備に1年半を費やしてのこの時。以後、彼の創造性と高度なイメージのつけ方はご存知のとおりである。
 そして、ロンドンやミラノへ出かけては試行錯誤を繰り返していた”アントワープ・シックス”の他の5人は、‘90年代からのモードが”ストリート”へランディングし始め、新たな環境と風景を見せ始めた時にやっと巴里へ上陸することが出来たのである。そして、’90年代の巴里で彼らたちは”アントワープ派”とまで呼ばれるようになり、彼らたちのうねりの時代になった。当然であるが、彼らたちの母校が注目されこの様なモードの学校が在ったのだと言う驚きと共に、多くのジャーナリストを味方につけた。何を言おう、この僕もそんな中の一人であった。
 確かに、今でもこの学校の教育レベルは他国のモード系学校からは抜きん出ている。インテレクチュアルであり、エモーショナルな表現が巧く、オリジナリ性も豊かである。やはり、この街の「根っこ」がユダヤ人の街であるために彼らたちの独特な感情表現の巧さとビジネス上手を”育ち”として持っているのが強みである。僕はこの学校とリレーションが出来てから多くのこの街が輩出したデザイナーたちと関ってきたが、彼らたちに共通する所は「エゴ」が強いことである。彼らたちの”エゴ”の強さを、または人間の”自我”をモードの世界へ教育して来たのがこのアカデミーであろう。

2)「時代が変わろうとしている兆候はやはり、人心にその根拠があるのでしょう。」

 このアカデミーのここ1,2年来、その状況に少し変化が出て街が変わり始めた。モードの関係者たちがこの街をモードによって変革させるパワーを持ち、確実に彼らたちのイニシアティブを持ったのだ。「フランドルファッション研究所」が出来、政府と市に掛け合って空きビルを貰ってリノベーションして見事な"アントワープ・モードの殿堂"を築いたのが2001年、以後この街のモードの人たちは特別の人になり、街が変化し始めたのと同じように彼らたちも変化し始めた。例えば、日本人学生が"ブランド志向”宜しく、ここ2年来毎年12人ほどが入学をしている。20%を"日本人"でと言うような枠を作ったのであろうか?それまではよく、僕にまでこの学校の先生は日本人学生を嘆いていたはずなのに、ここに来てなぜ12人も?
調べてみると、この2年来アジア系の学生には年額費が40万円も加算された。それまでの全生徒、一律60,000円ほどの学費で良かったのが、急に値上がりしてしまった。これはこの国の政策であろうが、これを請求したのは当事者たち、アカデミーの先生たちである。日本人や韓国人をはじめとするアジア系生徒たちは語学の問題も含めて手間暇が掛かるからと言う理由からの”値上げ”であろうか?その為、昨年も今年も日本からは12人が入学をしている。昨年の5人ほどはもうすでに落ちてしまって2年生へ進級出来ていない。東京の新興ファッション大学もアントワープブームに乗って、生徒を毎シーズン観光コースよろしくコレクション時期にこの街へ連れて、この学校の先生を窓口に特別講義と称してクラスを設け、ここの先生たちにアルバイトをさせている。僅か数時間の講義を終えた生徒からディプロマを出してほしいと質問されて、とんでもないことと慌てふためいた事件もあった。このような様変わりは、かつてのロンドンのセントマーチン校を思い出す。以後、この学校も実質のレベルが下がったほどであった。
 静かで小さな田舎街、質素倹約でつつしみやかに生活していたこの街が、モードによって街そのものが変革し確実に経済効果が上がり、社会環境もそこで生活している当事者たちも変化した現実。今では騒々しい小都市へと移行し、ファッション・ピープルたちが風を切って闊歩し、彼らたちの心は”小巴里”になろうとしているように感じられる。それもいいだろう。が、ここに問題が一つ。アントワープが巴里化しても始まらないのである。すでに、この街の実態は世界レベルでファッション情報が飛び交いメディアがひしめき合っている。それらの差異をイメージの世界で均一化し始めているので、余計にこの街の生徒たちは翻弄されて彼らたちがこの街で学ぶアイデンティティが無くなって来ている事も、このアカデミーに多少の変化与えているであろう。
 ここにも、モードのイメージによる「グローバリズム」と言う”新しい環境と風景”が現れ、現実化してきていることが感じられる。
 それに、”EU”になったことも大きな要因であろう。EUにおける都市間の差異がちじまり始め、余りにパリへ近ずいたために学生が”中央集中型”になってしまうと言う変化が現れ始めたと僕は読んでいる。今ではこのアカデミ-もベルギー人は少なく、ユーゴスラビアをはじめとする東欧、オーストリアとドイツ系が多く、それにフランスやイスラエル、中東と先のアジア系で占められるようになってしまった。

3)「この学校が今、本当にしなければならないことは生産背景を自国または自分たちの手が届くところで拡大することである。」

 卒業生は毎年出て来るが彼らのコレクションの生産を引き受けてくれる工場が不足していることを解決しないで、この街もイタリーへ逃げている(?)のが新たな現実だ。
 先生と言う役割を考えてみると、生徒を”迷える羊”と思って、「さあ、ここでやりたいことをやりなさい」と彼らたちにあった「囲い」を作ってやってったり、個人能力を認めて、彼たちを飛び立てる鳥という発想で、個々に合った「窓」を開けて「さあ、大きな青い空へ、」とすすめたりすることも先生の役割であろう。
 当然、これは生徒個人の才能にも学年にも依るであろうが、その判断が的確でシャープだったこの学校の先生たちが鈍くなってきたのか?と僕は考えてしまう。
 今年の審査員を選ぶところで面白いことがこの学校で起こった。学校側は最初あの、”トム・フォード”へ先ず、依頼した。が、勿論「No!」。次にプラダへ、これも「No!」。そして、最後にA・アライアへ。彼も「No!」。結局は地元のパターンも出来ない卒業生デザイナーP.ブルーノとパリからプレスのKUKIとブティック、マリアルイザのマリアがメインジュリー審査委員となったと言うお粗末なことに。なぜ、トムなのかが僕にはわからない。生徒のためなのか、先生達の為なのか。多分、卒業生のことを思い就職先拡大化のため?インデペンデントなデザイナーが誕生しにくくなったことを予感しての行為?とも考えられる。
 最後に、なぜ僕がこの街のモードのビジネスも含め、「”D・V・ノッテン”止まり」かと言うと、彼、”D・V・ノッテン”チームがこの街の成功例として、立派に儲けすぎたからなのである。それにここ数年来、この学校からのデザイナーが殆どと言っていいほど独立出てきていない。新人がデヴューし難くなったと一言で言ってしまっているが、これには先にも挙げた現実の問題がある。この国の地方での生産環境が狭くなり、新たな新人デザイナーのものを生産する余裕が無くなり始めた。従って、この街のデザイナーのモノはそれなりのモノであるのに売値が高くなり始めたり、デリヴァリーも悪くなってきたデザイナーも出て来て、折角独立しても発展できず落ちてしまうケースが多くなってきたことが一番の原因であろう。そこで卒業生でビジネスが優秀なデザイナーは、この街1番の稼ぎ頭で、既にこの街の郊外に城もどきの邸宅を買って住んでいる”ファッション・エンペラー”D. V.ノッテンの元へ一旦就職してしまうケースが増えているのである。結果的にドリスがいつも若くて才能ある卒業生を自分のアトリエへ迎えられると言う”美味しい状況”を作っているのも現実である。この例には、あのアンジェロ・Fとの間に、イタリーでは珍しくもないが、この街では珍しい[ファッション・マフィア的な]出来事がある。アンジェロの非凡なる才能に大いなる興味と愛ある嫉妬を示したドリスは彼の事実上のデヴューコレクションを後ろから支え、いろいろ面倒、たとえば展示会場のスペースを貸してやったりとか、を見てきていたのだ。が、結果最近になって判明したことに、このドリスの会社が、”アンジェロ F."のブランド名の”登記”を彼に内緒で数十年間もホウルディングする内容の契約を交わしていたのだ。従って、当のアンジェロはこの契約期間中は自分の名前なのに”ブランド名”として自分の名前を勝手には使えないと言う、隠された事件まで起きている。アンジェロがイタリア人ということも手伝ってか誰もこの件に対しては手が出せなかった。これが変わってしまったこの街での現実の一コマで在る。この結果、当のアンジェロはイタリーのサルディニアへ帰国し家族を設けて、事実上”服”の世界からは手を引いてしまった。従って、この学校からしばらくは大物デザイナーが登場するのは至難の状況になってきたと言える。これがモード都市へと成長を遂げている昨今のアントワープの新たな環境と風景の一部である。

4)「巴里は巴里一つでいいのである。アントワープが巴里化する必要はないのである。」

 結論を言えば、”巴里”に近つきすぎ、差異が見えなくなり始めたのだろうか?或いは、アカデミーに君臨するファッショングルービー達の”ドンキホーテ&サンチョ パンサ現象”であろうか?

5)追記; 
 この原稿の2年後に、この街を事実上、”ファッション都市”に仕立て上げた立役者の一人が「公金横領罪」で、30年近く住んだこの街から追放されると言う事件が起きた。これは次号で紹介。

合掌。
文責/平川武治:
初稿/2004-09-24:


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