029 バス置き去り事件(スペイン)

スペインを夜行バスで移動中のときのことである。

バスはいくつかの街のバスターミナルを経由して目的地に向かっていた。夜行バスでは途中に休憩時間があるのがふつうである。乗客はその時間にトイレに行ったり、何か食べたりする。

バスがターミナルに停車するとき、運転手がその都度アナウンスをするのだが、スペイン語なので何を言っているのかわからない。でも、このアナウンスから、休憩なのか、普通の停車なのかを判断しなければならない。

自分なりの分析では、運転手は普通の停車なら「どこどこに着きました」くらいの短い言葉しか言わないのだが、休憩のときはなにやら長くしゃべる傾向がある。

とあるターミナルに到着した。今回は運転手は長くしゃべったので、たぶん休憩だと思った。乗客もみな降りていくので、間違いない。

バスステーションには何台かバスが停まっている。戻るとき自分のバスかわからなくなったら困るので、ちゃんとバスの位置を確認してからトイレに行く。

トイレはちょっと離れたところにあって、なんで遠いねんとか思いながら用を足して戻る。バスターミナルにはカフェのような店があって、軽食が取れるようになっている。腹減ったなあ、何か食いたいなあと思いつつ、不安なのでバスが見える位置までとりあえず戻ろう、と思って戻った。

……はずである。でも、自分が乗ってきたバスが見当たらない。

「あれ?」

ハハ、そんなはずはないだろう、と思って、再度じっくりと確かめるが、いないものはいない。降りるときにちゃんと確認したその場所から、バスがいなくなっている。しばしポカンとしたまま時が流れる。

しばらくたって、現実を受け入れることにした。やってしまった。バスに乗り遅れた。ここでの停車は休憩じゃなかったのだ。

状況を理解すると、今さら気が動転してきた。バスはまだ近くで信号待ちしているかもしれない。そう思ってダッシュで道まで出てみるが、それらしきバスは見当たらない。

バスに置いていかれるなんて起こりそうで起こらないことのひとつだったが、ついに起こってしまったか……

幸いにも貴重品が入っているショルダーバッグは身につけていた。だからとりあえず致命的なことにはならない。でもバスのトランクに入れていたメインのリュックはなくなってしまった。

内心、これちょっとネタになるな、日記に書けるな、とも思ったが、日記に書こうにもパソコンもリュックの中だと気がついた。パソコンを失うのは痛い。なんとか取り戻さねば。

ここは先進国スペインだ。ちゃんと連絡をし、事情を話し、手続きをすれば荷物は戻ってくるだろう。しかし、今は深夜。ターミナルのインフォメーションにも係りの人はいない。言葉ができない中で、これから先に起こることの面倒くささに暗澹たる気持ちになる。

ふと、近くにいた女性が何か言ってくる。

この大変なときに何やねん、と思ったが、若い女性なので快く受け答える。彼女は僕がスペイン語がわからないと知ると、英語に切り替えてくれた。

「バスは戻ってくる」

「え?」

「何だか知らないけど、また戻ってくるらしい。私もびっくりしたのよ」

そうだったのか。そういえば、他の男の人も僕に何か言ってきていたが、動転していたので無視していた。たぶん彼もバスは戻ってくるよと教えてくれていたのだ。それなのに1人で血相を変えて車道をダッシュしていたりして、とても恥ずかしい。 もし彼女が教えてくれなかったら、もう1往復くらいダッシュしそうな勢いだった。

なんだか信じられないけど、ひと安心である。バスがいなくなったこともまだ信じられないうちに、また戻ってくると言われて全体的になにも信じられないけど、とりあえず一服。ひと仕事したあと(何もしてないけど)のタバコはうまい。

彼女の言うとおり、無事バスは戻ってきた。

安心すると、腹が減っているのを思い出した。まだしばらくバスは停車しているだろう。そう思って、さっきおいしそうだなと思って見ていた食べものを買いに行く。バスはそう簡単に僕を置いていかないだろう、と過信していた。

食料を買い込んで、戻ってくると、

なんとバスが……

いない!

ってことはなくて、ちゃんとそこにいた。良かった。 今度こそ置いていかれたらどうしようと、戻ってくるまではドキドキしたが、現実はそう簡単にギャグみたいなことにはならないのである。

結局、杞憂というか、骨折り損のくたびれ儲けというか、つまり何ごともなかったのだけど、バスに置いていかれる気分だけ味わえて、ちょっと得した気もするスペインの夜だった。

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