価値観の土地

「山は沈黙という言葉で語りかけてきた」という表現が印象的な、冒頭の登山の話に引き込まれた。途中で命を落とす確率が何割かあると言われるなかで、あの若さでK2に挑んだ決断に驚かされる。プラン通りにいかず、高度8000メートルの雪山でビバークするシーンはまさに生死の境だ。その体験が、勢いではなく、いったん体の中に入ったものを時間をかけて取り出したような距離感の、端正な文章で描かれている。

小松由佳著『人間の土地へ』は、これだけでも一冊の本になりそうな話なのだけれど、本題はここからだ。

その後、著者は、沙漠の民の生活を撮影しようとシリアを訪れる。まだ内戦が始まる前のことだ。現地の大家族の生活を取材し、その一家の一人の男性と恋をする。やがて戦争が始まり、著者の人生を賭けた決断の行く末に目が離せなくなる。

興味を引かれるのは、シリアの家族の話。伝統的なアラブ社会では、男女の役割ははっきり分かれている。女性は家事一辺倒で、家から半径数十メートルくらいで人生のほとんどを過ごすという。一家の長である父親は「欧米や日本の女性は外で働かされ、疲れ切ってかわいそうだ」と話す。実際に大家族で暮らすアラブ人の女性(妻)たちも、その生活を当然と考え、満足しているようだった。

しかし、その家族観の闇の部分も著者は見逃さない。一家の男性と結婚したある妻には、子供ができなかった。そして、そのことを理由に家を追われてしまうのである。気の良い人で料理がうまく、家事もきちんとこなしていたにもかかわらず。著者は故郷に戻ったというこの女性を訪ねていくが、元の家族も含め、誰も行方を知らないという。子供を授からなかったことだけで、社会から追い出されてしまうのだ。伝統的な家族のあり方にも良い部分はたくさんあると思うけれど、これは受け入れられない価値観だ。この女性にもなにか避難路があってほしいと願う。

働くことに対する価値観も違う。やがて著者とともに来日し、日本で働き始めたシリア人の夫は心身ともに疲れ果て、内戦下のシリア政府軍の兵士だったときのほうが精神的にはマシだったとこぼす。そんな社会で自分たち日本人は暮らしているのだ、と気づかされる。

価値観の違い、というと月並みに聞こえるけれど、著者の力強い行動を通して、価値観の持つ力が改めて迫ってきたような気がする。「人間の土地」とは、価値観の土地なのかもしれない。

あと、アラブ社会でことあるごとに求められるワイロは、お金が欲しいというよりもメンツの問題が大きいということがわかって、勉強になった。

#読書の秋2022
#人間の土地へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?