食べているのは社会かもしれない
先進国では大量の新品同様の食料が、日々捨てられている。家庭から出る廃棄はもちろん、スーパーや外食店からも毎日食料が捨てられていて、その量は世界中の飢餓に苦しむ人を救える量の何倍にもなる。
ということを、食料廃棄をテーマにした『さらば、食料廃棄 捨てない挑戦』を読んで知った。
なんというか、ものを捨てるという行為には、人間の本質的な性質が隠れているような気がする。たぶんそれは「新陳代謝」的な感覚じゃないだろうか。人間は生きていくために新しいものを食べて、古いものを排泄する。だから常に新しいものに目が行き、古いものは早く捨て去ってしまいたい本能があるのだと思う。
実際、スーパーマーケットは常に商品棚を満タンにしておくために、新しい商品が入荷したら棚にあった商品は廃棄してしまう。それがまだ食べられるかどうかよりも、新陳代謝を優先してしまうのだ。
だから廃棄は仕方がないことなのだ、ということでは全くない。この状況をなんとかしようとする動きがある。そのひとつとして、この本で紹介されているのがターフェルというNGO。捨てられた食料の中から、まだきれいで問題なく食べられるものを回収して、食べものに困っている人に配る。そういう活動を行っている組織だ。
また、ゴミダイバーと呼ばれる活動家もいる。ドイツなど、国によってはゴミを漁ることは違法になっているけど、それでもあえてやるという一種の抗議活動である。ゴミ箱から自分たちの食料を得るのと同時に、まだ食べられるものが捨てられていることを社会に対してアピールしている。
いまの世の中には環境問題とか貧困問題とかいろいろあるけれど、「捨てる」ことを見直すだけで、けっこう多くの問題が解決されるんじゃない? この本が訴えかけているのは、そういうことだ。
食べることは個人的なことだけど、それは食べる瞬間だけのことで、その食べものがどのようにして目の前に現れたか、食べ残したもの(食べたものも)はどこに行くのか、と少し視点を動かせば、それは社会のことになる。
って言ってみたけど、具体的にどういうことだろう? 例えば、いま自分はコーヒーを飲んでいる。コーヒーは好きで、ホットのブラックで飲むことがほとんどだ。目が覚めるし前向きな気分になるしで、毎日のように飲んでいる。ちょっと中毒なのかもしれない……というようなことは個人的なことだ。
でも少し視点をずらして、ではこのコーヒーが今の倍の値段になっても同じ感想を持てるだろうか? コーヒーが実って収穫されて加工されて運ばれてくる全過程を見たらどう思うだろうか? それとも、そういう情報はせっかくのおいしさを奪ってしまうから知りたくない? とか。そういうことを考えてみると、食べることは社会的なことなんだなあと思う。
自分は社会を食べているのかもしれない。
『さらば、食料廃棄』
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