004 ハバロフスクで宿を追われる

今日こそ早起きしようと誓って眠ったが、やっぱり朝寝坊してしまった。寝すぎて罪悪感を感じるのは、どこの国の人でも同じなんだろうか。起きて部屋を片付ける。まだチェックアウトする予定はないけど、気持ちだけはいつでも出発できるように、毎朝荷物を整理することにしている。

昼前に外出する。目覚めはよくなかったが、外は目の覚めるような秋晴れ。ハバロフスクの街は高い建物があまりなく道が広いので、空が大きく感じる。

緑の中を抜けてレトロな車体の路面電車がゴトゴト走っているのを眺める。運転士は女性が多い。料金も安く、気軽に乗り降りできるので便利だ。

* * *

バイク乗りのTくんからメールがあり、目的地のイルクーツクに無事着いたとのこと。僕が朝起きれられないだなんだとごちゃごちゃ言ってる間に、彼は4000キロもの道のりをバイクで走破していた。

そんな今日もやっぱり早起きはできない。このままではほんとにダメ人間になってしまうと危機感を覚える。ここはひとつ攻めの姿勢を見せるべく、宿代を値切ってみようと思いついた。このホテルは基本的には値段が決まっているが、長期で泊まっているので、何かしらのディスカウントがあってもよさそうなものだ。

フロントにて、なけなしのロシア語で「安くなりませんか?」と聞いたところ、「ノー」とあっさり断られ、さらに返り討ちを浴びせるように、

「あなたは明後日までしか滞在することはできない」

と言われる。「なぜ?」と思ったが、詳しい理由を聞き出すほどの語学力がない。とにかく明後日までに、このホテルから出なくてはならないらしい。団体客の予約でも入っているのだろうか。

突然の通告に面食らう。そろそろ出発しなければとは考えていたが、それは自分の気持ちひとつだと思っていて、ホテル側から引導を渡されるとは考えてもみなかった。この街に別れを告げる日が迫った。

この街での思い出をかみ締めるために、いつもより大き目のアイスを食べて、 アムール川に向かって、大き目の石を投げた。

思い残すことがないよう明日はあれとあれをしよう、と夜に部屋で計画を立てていると、ドアがノックされた。恐る恐る出てみると、 先日このホテルで出会った日本人旅行者のSさんだった。彼はあと数日で日本に帰るそうだ。

「明日ひまなので昼飯でも食べに行きませんか」

と言うので、OKして待ち合わせ時間を決めた。

Sさんは物腰のやわらかい感じのいい人。でも物腰のやわらかい人はただ者ではないことが多い。

* * *

どんよりとして小雨模様。外は寒く、吐く息が白い。待ち合わせ場所のロビーに行くと、Sさんはすでに待っていて、「今日サーカスがあるらしいので見に行きませんか」と誘われた。

断る理由はない。毎日何かひとつは新しいことをしなければ、と思っているくらいなのだ。バスに乗ってサーカスの会場があるという場所に向かう。Sさんはロシア語がけっこうできる。物怖じせず人に道を聞いたりして、旅慣れてる感じだ。

バスに30分弱くらい乗って、その会場らしき場所にたどり着いた。しかし、ひと気がなく閑散としている。窓口があったので聞いてみると、どうやらサーカスは今日からではなく明日から開催されるらしい。前売り券を売っていたので、仕方なく明日の分を買って戻る。

時間ができてしまったので、川沿いの公園でSさんとビールを飲む。会社の夏休みを使っての1週間の旅行だそうだ。僕と同じくらいの歳のときに、仕事を辞めて世界一周のような旅をしたことがあるという。ロシアや旧ソ連の国もたくさんまわり、そのときにロシア語を覚えた。中南米で日本語教師をしていたこともあると言っていた。

その後、お土産品を探したいというSさんと、郵便局の切手売り場に行ったり、CDショップに行ったりする。ソ連時代の切手はかなりデザインがかっこよく、Sさんもいくつか購入した。切手売り場のおじさんは、自身がかなりの切手マニアらしく、僕らが興味を持っているのを知ると、個人的なコレクションを見せてくれた。今度の日曜にコレクターの集会があるので君らも来いと言う。郵便職員が天職という感じの人だった。

* * *

快晴で気持ちの良い朝だ。サーカスを見に行くという用事のおかげで早起きできた。さっそくSさんとバスに乗る。

平日の朝だからか、バスは満員でぎゅうぎゅう詰め。目的の停留所に着いたが、人の多さのため乗降口までたどり着けず、降りそこなったままバスは発車してしまった。「しくじった」と思ったら、乗客の誰かが運転手に声を掛けてくれて、再停車してもらうことができた。

サーカスはイルカショーがメインの催しで、その他に、空中に吊られた輪を使ったアクロバットや、フラフープを同時にたくさんやる、みたいなパフォーマンスがあった。

生の舞台やらショーを見るときは、見てるこちらの方が緊張してしまう。でもそういうことを忘れさせてくれる演技を見ると、プロだなあと思う。人前に立つのは苦手だけど、大勢の観客の前で演技する人の体の中に一度入ってみたい。

こじんまりとした会場には空席もかなりあったが、それでも子供連れがたくさん詰め掛けていて、アットホームな雰囲気だった。

サーカスを見終えて、今日も昼間から公園でビールを飲む。昼間どころかまだ11時だ。Sさんいわく、ロシアでは昼間からビールを飲むのは行儀の悪いことではないが、酔っ払うのは良くないのだそうだ。そんな話を聞きつつ、酒が強くない僕はすでに酔っ払っている。売られているボトルは一番小さいものでも500ミリリットル入りなので、必要以上にたくさん飲んでしまう。

まもなくトイレに行きたくなる。我慢ならなくなったので近くの銀行のトイレをこっそり使ったら、警備員らしき人に怖い顔で何か言われた。腰の低いジェスチャーで謝意を示してさっさと立ち去る。Sさんはすでに1.5リットルくらいビールを飲んでいるはずだが、どうしてトイレに行きたくならないのか不思議だ。

宿に戻って、宿泊を延長できないのか聞いてみる。今日までにチェックアウトしろとは言われていたのだけど、理由もよくわからなかったし、頼めば何とかなるのではないかと思ったのだ。

すると、もう1泊だけならOKだという。それ以降泊まれない理由は、なにやら大規模な会議が開催されるために、国内外からの宿泊客の予約でいっぱいなのだそうだ。ペンキを塗り直していたのもそのためか。

夕方公園のベンチに座っていると、おばさんが隣に座ってきた。たばこを1本くれというのであげたら、なにか体を近づけてくる。スラれるかもと思い身構えたが、どうやら酔っ払っているらしい。かなり酒臭い。何か言いたいことがあるらしく、さかんに話しかけてくるがさっぱり分からない。辞書と指差し会話集を出して、何が言いたいのか探ってみると、「なぜ?」「~してはいけない」「好きである」の3つの単語を示す。やっぱりよくわからない。ていうか、なぜにベタベタ寄ってくるのか。危害を加えられそうな気配はないが、別の意味で危険な気がしてきた。最終的には「マニー、マニー」と言い出したので、「わかりません」と言って退散した。 売春しようとしていたのだろうか、とあとになって思った。

* * *

ついにこの部屋を出なくてはならない。荷物をパッキングする。来たときより荷物が少なくなっていた。パッキングのスキルも上がったな、と悦に入ったが、寒くなって服を余計に着込んでいただけなことに気がつく。しかも一時的な荷物を入れておくはずだった紙袋が、いつの間にかレギュラーの荷物として定着してしまった。

次の目的地はイルクーツクである。調べたところでは列車は9時と16時にある。いまならなんとか16時の列車に間に合いそうだ。「よし移動しよう」と決意して、駅に向かって歩いていると、2人組の警官に止められた。

パスポートチェックである。これまでも何度か受けていて特に問題はなかったのだけど、今回はなぜかしつこい。彼らはおそらく「ビザでは目的地がモスクワになっているのに、なぜハバロフスクにいるのか」と言っている。

痛いところをついてくる。ロシアを自由に旅行するために取得した「ビジネスビザ」は、モスクワの会社が招待してくれたという形になっていた。「なのになぜお前はハバロフスクにいるのか?」と突っ込まれているわけだ。僕は「ノープロブレム」を繰り返す。モスクワへの途中に寄り道しているだけだ、という言い訳は通るはずだ。

すると、公園の脇の方、人のいないところに連れて行かれた。パスポートを取り上げられているので逃げられない。

「罰金だ」

と言われる。来たなと思ったが、意味が分からないふりを通す。まだそれほどシビアな雰囲気ではないと思った。

いよいよ警察署に連れて行かれた。それまでは楽観していたが、通された部屋には鉄格子の牢屋があった。急に怖くなる。連れてきた警官が上官らしき人にパスポートを見せて何か言っている。まずいことになったのだろうか。今まではそう感じなかったが、ロシアの警察は悪名高い。言葉も通じないし、ここで牢屋にぶちこまれるようなことになればどうすればいいのか。

不意にパスポートを返され、「早く行け」と釈放された。たぶん上官が問題ないと判断したのだろう。よかった。まあ宿代が浮くし、話のネタに一晩くらいは入ってやってもよかったんだけど。とか思ったけど、それは本心ではない。

しかしそんなことよりも、今の警察沙汰で時間を食ったため、今日の列車の時間に間に合わなくなった。かといって今晩泊まる場所もない。仕方がないので駅で夜を明かすことにする。明朝の列車の切符を買って、しばらく公園で時間をつぶす。

暗くなった。そろそろ駅に行こうと思うけど、でも駅で夜を明かすのは気が重いなあ。寒いし、硬いイスでろくに眠れないし、荷物にも気を使わないといけないし。イスが確保できない可能性もある。ふと、近くにインツーリストホテルという、この街で一番立派なホテルがあることを思い出した。そこのフロントで一晩明かせないだろうか。

そのホテルに行き、 セキュリティのおじさんに

「朝までここに居たいんだけど」

と言うと、意図が通じたようでフロントに掛け合ってくれた。フロントの女性も、意味が分かったようで、「OK。問題ない」と言ってくれる。話の分かる人たちでよかった。例の会議で、どのホテルも満室だということに同情してくれたのだろう。奥まったところにあるソファを提供してくれた。ありがたい。暖かいし、横になって眠ることができる。駅で夜を明かすのとは雲泥の差だ。安全に眠れる場所というのはいかに貴重かと思う。

疲れていたのであっという間に眠りに落ちたが、深夜2時ごろ突然、体をゆすられた。

「パスポートを見せろ」

ホテルの人らしい男性が厳しい顔つきで立っている。パスポートを手渡すと、入念にチェックされる。そのままパスポートを持っていかれ、ホテルの人たち数人で何か議論をし始めた。ロシアのホテルは外国人が泊まったら、外国人登録をしなければならない。ソファで寝ているとはいえ、その登録なしに泊めると責任問題になる。そういうことかもしれない。

しばらくしてパスポートを返され、「寝ていい」と言われる。見逃してくれるようだ。追い出されなくてよかった。

* * *

朝になった。ホテルの人に礼を言ってから、まだ暗い外へ出る。こんな早朝に、この街を歩くのは初めだ。空気が澄んでいる。夜が明けていく中を駅に向かった。

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