「ふわっとしたもの」は間違ってない

山口晃さんの書いた『ヘンな日本美術史』がおもしろかった。読みながらいくつも付箋を貼ってしまった。その一つ一つはあとで個人的にメモしておこうと思うけど、詳細の前に、大きく印象に残ったのはどういうところだろう?

というのは、この本の中で語られているのは、詳細な写実よりも、より本質をとらえた絵の描き方がある、ということだからだ。西洋の透視図法が入ってくる前の日本の絵師は、そういうセンスを持っていた。実際の見た目と正確に同じかどうかというのは、あまり気にしていなかったのである。

だからこうやって本の感想を書くときにも、文章の一文一文を細かく振り返ってみる前に、何か全体的なかたまりというか、本を読んでいるときや読んだ後に浮かび上がってくる、ふわっとしたものを捕らえられないだろうか、と思ったのだ。

そういえば一時、「ふわっとしている」という言い方をよく耳にすることがあったけれど、それは書くべき(描くべき)対象としては間違っていないのだと思う。技術が追いついていないことはあっても、「ふわっとしたもの」を伝えようとする態度は、表現者としてまっとうなのだ。昔の日本の画家にも、パーツの正しさではなく、より本質的な自分の中での正しさを追求する精神があったのだろう。

もちろん、ディティールをおろそかにしてもいいというわけではない。何に忠実に、ディティールを描くかが重要なのである。

これは文章を書くときにも参考になりそうだ。たとえば旅行記を書くときに、写実的な説明やガイド的な記述に終始してしまって、本来伝えたいことの奥行きが出ないことがあるかもしれない。もっと、その旅行から受けた印象のかたまりを解きほぐすように書いてみてもいいのではないか。

山口さんいわく、絵の完成度というものは、「見たまま」と「イメージ」の中間にあるという。それはあらゆる表現に当てはまることなのかもしれない。

もうひとつおもしろかったのは、歴史を見る視点についての話。山口さんは、「現代からさかのぼって過去を見るのではなく、その時代から、どうなるかわからない未来を見据えた視線を想像すべき」だという。

たしかに、現在から過去を振り返って見れば、これがこうきて、こうつながって、という流れで見てしまうけど、実際、あらゆる歴史は、その時点で最先端なのだ。戦国時代の武将も、月に国旗を立てた宇宙飛行士も、その時点で歴史の最先端にいたことには違いがないのである。考えてみれば当たり前だけど、これまで考えてもみなかった。

その視点で歴史のことを考えていると、なんだか物事がうまく整理できないような気分になってくる。例えば「いちご」という文字をじっと見つめ続けていると、妙な違和感が生まれてきて、これまで何の疑問もなくこのことばを使ってきたことが信じられないような気持ちになることがあるけど、ちょうどそんな感じだ。

と、何の話だかわからなくなってきたけど、「ヘンな」日本美術史というだけあって、美術にはまったくの素人である自分が読んでも刺激的な本だったのである。

ヘンな日本美術史

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?