他人に何を言われても動じない「信」のあり方。恋愛や言語の壁に例えて

世の中には南無阿弥陀仏と唱えたら無間地獄に落ちる、とか言う人もいますが、真に受け無いほうがいいですよ。

同じ宗派の人であっても色んな声がある。人間は、「自分の信じたいもの」しか習性として信じない、都合のいい解釈をするので。それはもう人間の習性として仕方がない。
そういう「都合の良い解釈」の人が多数派だと、その解釈が教本に乗ることも有りえます。それは集団内の政治の話なので。

大切なのは、そういった声・・・雑音に惑わされない事、信仰です。
教えられた事を鵜呑みにするのではなく。
自分が(突き詰めると、自分の関わる出来るだけ多くの人が)幸福になるには、どういう態度であればいいかを?を、宗教から学び、体に染み込ませる事です。

パンに牛乳をひたすように学んで染み込ませる・・・
仏教的に言うならお香を炊いて体に染み込ませる「熏習(くんじゅう)」となるんでしょうが。


ゲームのセリフを用いるとふざけてるのかと思われるかもですけど、「私、占いは良いことだけ信じることにしてるの」ってのは名言だと思いますね、、、(ときめきメモリアル1、藤崎詩織)

「いいとこ」だけ信じたらいいのです。

例えば好きだったけど別れた彼女が、自分以外の違う男と幸せになったとしたら、それを「絶対不幸になる」「地獄に落ちろ」と言うのは・・・

内心でどう思うかはともかく、少なくとも口に出して呪うのは明らかに人としておかしいでしょう?「幸せになれよ」っていうのが理想でしょう。

同じように、違う神仏を崇めていてもそれは「違う異性を選んだ」だけの話なのです。かなしいけれど、敢えて相手の幸せを願うのです。
ーーーと。そうありたいと私は思っています。

我々は神仏ではないので、基本無力。幸せになるか不幸になるのはその人次第、と思うことです。自分にできることは自分の最善を尽くすのみ、後は成り行きに任せるしか無い。
自分と考え方の違う人とは、折り合える部分を探すことを優先したほうが幸せだと思います。


外道、とか 無間地獄に落ちる、とか敢えて仰るくだんの教えは、迷いやすい一般人にはそれはそれで分かりやすい布教なんでしょうが、他派から見ると・・・失礼ながら呪いの言葉にしか聞こえない。

でも私は批難は極力しません。恨みを恨み返すことは法然上人の(父上の)教えに背く。それはその宗派を選ばれたのですから、「そういう言語」なのでしょう。英語と日本語、アラビア語、とかのように 言語風土の違い、なのでしょうね。

違う言語の空耳を楽しむ文化、ってのはネットでもちらほら見ますよね。
下品な例えですみませんが「ヒトラー最後の十二日間」のドイツ語の空耳「おっぱいぷるんぷるん」は、余りにも有名。「総統閣下シリーズ」で検索すればどっかにあるはずです。

でもそこでその言葉の端が下品に聞こえたからと言って、ドイツの言葉を使ってる人を恨む奴はおかしいでしょう?


・・・言い出したら切りがないんですけれど、
肝要は「寛容」。動じない心、広い心とおもうことです。
違いは認め、ただひたすら、「世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」と称名するだけです。

南無阿弥陀仏・・・

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