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スヌーヌー「モスクワの海」を見る(その前)


信じられないくらい久しぶりに芝居を見に来た。飛行機に乗って。飛行機はすごく揺れた。台風が来ているからなのかたまたまなのか。台風のせいなら帰る日はもっと揺れるだろう。信じられないくらい久しぶりの飛行機と台風が重なるなんてさすがだと思う。さすがなんなのかは分からない。最近は良いことも悪いこともおんなじことのように思える。良いことも悪いこともただそう感じるだけなのかもしれない。だからといって感情は無くならない。感情は無くならないことをいい加減私は恐れずに自覚した方がいい。

芝居は再演で、前回見に行かなかったことを後悔していたから遠路を来ることに迷いは無かった。横浜には海がある。海の見えるガラス張りの建物で数時間後に芝居は行われる。生きている人を見たかった。そこらで動いてる人はみんな生きているが、そういうことではなく、表現している人を見たかった。だからといって誰でも良いわけじゃなかった。笠木泉という人が表すものを見たかったし、それを体現する役者たちを見たかった。それが今の自分にとって、とても必要だと思った。なぜだろう。分からない、と書こうと思ったけど少し考えてみる。
分かった。ウンザリしているからだ。人間にウンザリしているが、ウンザリしたくない、と思っているからだ。どうしようもない。本音だ。大きなガラス窓の外を鳥が連なって飛んで行く。笠木泉は諦めない人だ。だから見たかった。ていうか単純に彼女が好きだ。肝の据わったすごい人だと思っている。肝の据わった好きな友達がいるということは人生で一番か二番くらいに幸せなことだと思う。その人が生きているというだけで勇気をもらえる存在がこの世界にいるということは自分を助ける。時にはそれはお金や食べ物よりも自分を助ける。与えられる愛よりも自分を助ける。それは希望だからだ。もう少し掘り下げてみる。希望は外にあるようで内に呼応している。他人を見ているようで自分を見ている。

今日は曇っていて空は真っ白だ。真っ白に霞む空の中、高い建物があることを飛行機に知らせるためのライトが時々白く点滅する。規則的なその点滅とゆらゆらと揺れる海面の波は全く違うリズムなのに溶け合いそうに同じものだ。でもやはり違うものだ。そしてやはりどう考えてもここにいて食べたり飲んだり喋ったりしている人たちはみんな生きている。そしていつか死んでいく。それだけのことだから楽しめばいいんだろう。理由などいらないほどそうなんだろう。
あと1時間ほどでカフェが舞台になり芝居が始まる。1時間ほどでここは違う世界になる。でもどうしようもないほど同じ世界なんだろう。どこまでも地続きの。私の。あなたの。当たり前だ。私は笠木泉のそれを見に〈ここに〉来たのだ。







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