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魂が羅針盤


みぞおちにはその人の本心があると聞いたことがある。
私が一番感じたくないものは、みぞおちではなくハートにある。

みぞおちには怒りの炎があるけれど、ハートには悲しみの水がある。
感情を押し込めることは何の力も持たない子どもの生きる術だ。

もともと喜怒哀楽が激しい子どもだったが、生きるために怒りや悲しみを抑えたら、喜びも楽しみも希薄になった。
そんな時間をとても長く過ごした。

静かな湖のほとりに立って水面を眺めるように悲しみを眺める。

「愛されないのは私が欠けているからで、そんなダメな自分は恥ずかしく嫌いだ。
弱いところは絶対に見せられない。
欠陥品なら何かを足さなければいけない、容姿もダメだし特別な才能もない、それどころか人並みに出来ることが何もない、そのままで人に好かれたり愛されるわけがない」
そんな、ないない尽くしの世界は息がしづらくて、苦しいのに平気なフリをしてきた。
自分の弱さや悲しみを認めるということは、自分が欠落した誰にも愛されない人間だということを自覚し、認めることになると思っていた。

子どもにとって親に愛されない、認められない、許されないと感じることは、自分がここに生きていても良いのだという存在の基盤が失われることと同義だ。
そんな恐ろしい事実を認めるよりも、どうせ私なんかと言っている方が、辛い現実を見なくてすむ。

そして私は今、湖のほとりに立ち水面を眺めるように悲しみをただ眺めている。
自分の一番柔らかく弱い心の部分を見ている。
私はとても深く、たくさん傷付いてきたという事実を、まずは認めてあげなければいけない。
自分の弱さを認めて、弱いことを許してあげなければいけない。
全ての土台が恐らくそこにある。

素直に心を開いて人と接すると、嫌われる、もしくは怖がられる、そして人がいなくなる。
そんなことが何度もあり、自分は何かおかしいのだと思っていた。
好きだと思うと相手との距離を詰めすぎるというか、境界線を超えてしまう。
瞬時に相手の間合いに入ってしまう。
それはきっと相手からしたらびっくりしたり気持ち悪かったり怖かったりするのだと思う。
問題は自然にそれをやってしまうこと。
だから自分に首輪をつけるように気をつけていた。
平安時代に戻って簾越しで歌をやりとりしているくらいが自分にはちょうどいいのだろう思っていた。

小学生の頃から詩が好きだった。
何も語らないで何もかもを伝えられたらいいのにと思ってきた。
だから、絵を描き、歌を歌い、芝居をした。
でも最後まで残ったのは、私が一番恐れていた〈ことば〉だった。

「ことばに追いつけない」
と、昔から思っている。
今だって思っている。

自分の書くものは誰かに疎まれるかもしれないし、でも誰かには届くかもしれないし、届かないかもしれない。
私自身への手紙のような文章は、同時にどこかの誰かへの手紙にも、もしかしたらなり得るかもしれない。
夢。

前もどこかで書いたけど、自分は人生の流れの中洲にいて、人が来ては去っていく、それをずっと見ている、寂しいな、と思っていた。
仲の良かった友達が突然いなくなる。楽しく過ごしていたのにある日突然連絡がつかなくなる。
なんとなく合わなくなってだんだん疎遠になるとかそんな穏やかな感じでなく、舞台のどんちょうが降りるように、突然ナタが振り下ろされるように関係が断ち切れて、縁が切れる。
そんなふうに付き合う人とステージがどんどん変化する。
ゲームの面が変わるみたいに。
どうすることもできない。

今年は移動が多く、移動先での出来事もなんだか静かに激しい。
変化を強要されている、というか、自分に還ることをかなり半強制的に強いられている感覚、圧、を感じる。

自分が変わるとそれまでの人間関係のバランスが微妙に、もしくは大きく変化する。
過去に人が疎遠になったりいなくなったのも、もし私の性格のせいだけでなく、変化が理由だとしたら。

自分が変化すると、これまで普通に会えた人が、一緒にいられない人、合わない人、会えない人に変わったりする。
それはとても悲しいし傷付くけど、仕方ない、流転しながらどんどん付き合う人が変わりその都度経験をして生きていく、それが自分なんだと受け入れるしかない。
一度きりの人生の時間の中で誰かと少しだけでも仲良くなったり楽しい時間を過ごせたなら、それだけでいいのかもしれない。
出会う時も別れる時も手を振って。
人生が旅すぎる。

そんな私にも変わらず友達でいる人が5人いる。
5人とも全然会わない。
1人なんてメールのやり取りのみでもう25年も会ってないし、他の1人も15年は会っていない。
でも、その人が生きていることそのものが私を勇気づけてくれる。
その友人たちに共通することは何かと考えてみたら、みんながそれぞれの中州にいることだと思った。
家族がいても誰といても、みんなちゃんと孤独な人たち。
そしてユーモアのある人たち。
それが私の数少ない、孤独な中洲の愛すべき友人たち。

本格的に夏の日差しになる前に、自分に浮かび上がる陰を書いておこうと思った。
その流れの中で思ったことは、(自分の魂が望むことを受け入れるしかないのだな)ということだった。
そこには「なぜ」も「どうして」も通用しない、答えのない、ただ「どうやら(私の魂は)そうしたいらしい」だけがあって、わたしが望もうが望まなかろうがもうこれは仕方ないとしかいえないのだな、ということがなんだか分かってきた。
魂が力を取り戻すことで何がどう変わるのか、せっかくならそれを見て体感してみたい。どうせならその景色を見せて欲しいし、見てみたい。私に。だって仕方がない。魂が羅針盤であるならば。





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