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スヌーヌー「モスクワの海」を見た。(観劇後)

スヌーヌー「モスクワの海」を見た。私は何を見たのだろう。
開演前のカフェでスヌーヌー主催の笠木泉の背中を見ていて、昔から私は彼女の歩いている姿や背中がものすごく好きだったのを思い出した。その背中の人がこの芝居を書いた。
私が思っているよりも、笠木泉は遥かに強く脆く優しく凄まじいのだと知った。彼女の側に優しい旦那さんがいて本当に良かったと思う。私はそれがうれしい。これは芝居の感想ではないですね。でもこれは芝居の感想でもある。私はすごいものを見た。ひとつひとつ思い出して詳しく書きたいけどそんなことは絶対にしたくない。なんだろうこの気持ち。4回公演全部見たかったし初演も見たかった。そんなふうに思った芝居は初めてだ。私は何を見たのだろうか。芝居を見た。私が見たのは本当に芝居だったのだろうか。

二つだけ書く。一つは、役者の方3人それぞれが、それはものすごく大きい声を出したり、叫ぶ場面があるということ。彼や彼女らは大声で叫ぶ。大声で拒否する。大声で誰かを呼ぶ。私たちはいつからか声をあげなくなった。それはおかしいと言えなくなり言わなくなった。空気を読んで、マスクをして、顔も気持ちも隠して黙っている。見ても見なかったことにする。そもそも無かったことにする。でも舞台の上で彼や彼女らは大声を出す。大声で拒否し、大声で助け、大声でタクシーを呼ぶんです。真っ直ぐに高く手をあげるんです。私はここにいますというように。
二つ目。芝居の終盤、転んで動けない老婦人を家まで連れて行った女性は、封の開けられていない郵便で老婦人の名前を知り、その名前を読み上げる。二度、読み上げる。その時私はものすごく衝撃を受けた。そうだ、社会から打ち捨てられて道で動けないでいる老婦人にも名前があり、歴史があり、一つの人生があるのだ。今、表には現れない、社会に見捨てられているかのような人たちにも、名前があり、歴史があり、一つの人生があるのだ。その事実が芝居の向こうからこの現実に突如立ち現れ、私は本当に胸を射抜かれたような気がした。
芝居の序盤、道を通りかかった女性が独白します。「誰も、見ていないのに。私はなぜ生きているのだろう。ふと、思ったのです。」と。
記号やコンテンツとして消費される、どころか最初からいない人のように誰にも知られもせずひっそりと消えていく、その消えていった誰かには名前があり人生があった、それはたまたま道で出会う誰かかもしれないしいつかの私かもしれない。私が誰かに手を差し伸べるとき差し出された手に救われているのはむしろ私の方かもしれない。先のことは分からない。でも今息を切らして走り、大声を出して手を高くあげることは、生きていくことを諦めることと真逆のことだと、私は思いました。たとえ間に合わなくても。私はそう思いました。この芝居を見て。
スヌーヌー「モスクワの海」、作演出・笠木泉。





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