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大人のなり方


どう歳を取るのが適切なのか、全然分からない。夏はダラけたワンピースとビーサンで過ごしていたいのだけど、この歳だとみっともなかったり小汚い感じになってしまう気がして、少しためらう。
本屋に行くと、この年齢ならこういう考えを持ってこういう服を着てこういう行動をするのが適切ですよというガイドブックみたいな雑誌がたくさんあるけど、私はどれにも全然当てはまらない。結果、常にアウェイで、人のいない森や海で暮らしたくなる。

死期が迫ったらこっそり姿を消す猫のように生き物のままで生きることや死ぬことはいつから人間には難しいものになってしまったのだろう。
こういうふうに自然の摂理に背いたことって、一度こじれてしまったらはじけて破裂するまでこじれ続けるような気がする。

本屋には本がたくさんあるのに読みたい本が全然無い。ずっと本が好きだと思ってきたけれど、もしかしたらそんなことは無いのかも知れない。
結局人生何冊めかの「ムーミン谷の夏祭り」を買う。

話は全く変わるけど宇多田ヒカルの新作がなんとなく気になっていたのでTSUTAYAでちょこっと視聴してみたら、もう忘れたと思っていた心の傷の扉がパタパタパタと三っつくらい一気に開いて、慌ててヘッドホンを置いた。宇多田ヒカルの凄みを感じた。この〈作り手が意図的にそうしようと思っていなくても、受け手の本人すら忘れていたようなこころの奥の奥にスッと触れてしまう〉という触手が、きっと本当の芸術家の才能というものなんだろう。

物を作る人は、やりたいからやっているとか、やらざるを得ないからやっているとか、それすら無くてただそういうものだからやっているとか、それぞれ色々あるだろう。
その中身の成分は違っていても、プロアマ関係なく、本気で物を作るということは本人にしか分かり得ない苦しみが伴うものだと思うけれど、これからの若い人たちはその苦しみという部分を超越した希望の場所からすごいものを、光の中から拾い上げるみたいに軽々と作り出せるような気もする。

私は昭和の団塊世代の子どもなので、世の中や家庭や教育に当たり前のように蔓延っていた完全に聞く耳持たない根性論とか支配的な家長制度とか努力と頑張りと我慢がモノを言うんだぞ!みたいな風潮にとても苦しんだので、これからの若い人たちの持つ(もちろんどの時代も特有の大変さはあるけど)軽やかさがとても眩しく、憧れる。

今の大人、おじさんやおばさんと言われる人たちに出来るのは、つまらない既存の価値観でその新しい人たちの道の邪魔をしないことと、その挙句果てしない可能性をひねり潰さないことだけだと思う。
自分たちの若い頃はとか君たちは若くて良いねぇとか言うクソつまんない大人にはなりたくないぜ!と昔から思っていたけど、今でもますますそう思う。ダラけたワンピースとビーサンで。

子どもが幼稚園から持ち帰ってきた朝顔に水をあげても気温の高さに葉っぱがすぐにしなびてしまう。水をあげる。でもあげすぎないように。
ちゃんと花が咲くだろうか?咲いてほしい。
今年も夏が暑過ぎる。
夕立ちぐらい来ればいいのに、と思う。






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