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草野くん(仮名)のこと


たしか小学校三年生くらいの頃。同じクラスの近所の草野くんは少し言葉が遅かったのか、喋っているのをほとんど聞いたことがなかった。
意思表示とかもあまりない大人しい男の子で、色が白くて髪が茶色くてひょろっとしてて、全体的に色素も印象も薄い男の子だった。
いきさつは全く覚えていないのだけれど、その草野くんの家に友だち何人かで集まったことがあった。
たぶんそのとき同じ班で、何か集まってやる宿題があってとか、そんな感じだった。

草野くんの家は一軒家で、集まったのは5人くらいだったか。
お母さんが買い物に出かけてたまたまいなくて、みんな宿題もせず二階の部屋で大騒ぎして遊んでいた。草野くんは静かにニコニコしていた。
そのうち調子に乗りまくった私はつるつるすべる新しい畳が楽しくて、和室でスライディングを繰り返し、勢い余って襖に突っ込んでしまった。
襖にはボコっと足の大きさの穴が空いた。
一気に血の気が引いた。
私は草野くんに謝った。草野くんは怒らなかった。
それまでスライディングの練習をしていた私はお母さんが帰ってきて部屋に入ってきたら素早く謝れるように、今度は何回も土下座の練習をした。そして正座をしたまま草野くんのお母さんの帰りを待った。ものすごく怒られる、どうしよう、そう思うと怖くて怖くて、心臓がドキドキして、緊張に押しつぶされそうだった。

しばらくして草野くんのお母さんが帰ってきた音が階下から聞こえた。階段を登り、お母さんが部屋に入ってきたとたん、私は土下座をしながら「ごめんなさい!襖を破きました!本当にすみませんでした!」と何度も謝った。
怒鳴られて母親に電話されるかもと覚悟をしていたが、草野くんのお母さんはびっくりしたとは思うけど、微笑んで、大丈夫よと優しく言ってくれた。そしてきっと買ってきてくれたのであろうジュースとお菓子をくれた。すごく優しくて、心底ホッとして、一気に力が抜けた。

草野くんも優しい子だった。
言葉も少ないしどもったりするからクラスの男子に馬鹿にされたりすることがあって、そんな時は顔を真っ赤にして怒って目に涙をいっぱいに溜めていた。
そんな様子を思い出しながらジュースを飲んでいたとき、わたしも草野くんを上から見ていたのだということに突然気付いた。
襖を破ったときの草野くんとお母さんがひとつも私を責めずに優しかったことにとてもショックを受けた。自分自身がすごく狡い人間のように感じ、打ちのめされた気持ちになった。
きっと草野くんのことを自分より劣っていると心のどこかで思っていたから、彼が自分よりずっと立派で優しかったということにショックを受けたのだ。そう気付いたとき、自分がとにかく恥ずかしく、その場で縮んでしまいそうだった。
あの日の経験はその後の私にとても大きな影響を与えたと思う。

そして子どもを持った今、あのときの草野くんのお母さんの気持ちが痛いほど分かる。
草野くんのお母さんは帰り際に玄関で、また来てね、と優しく言ってくれた。襖を蹴破った私に。その隣で草野くんは、いつもと変わらずニコニコしていた。

あれからもう何十年も経った。
草野くんもお母さんも元気かな。
元気だといいなと思う。






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