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骨折

たおが骨折してからもうすぐ4週間。
一瞬たりとも目が離せないので、たおが寝たら自分もウトウトし夜から夜中にかけて仕事のパターンが続いている。
たおを見ていると術後は骨折の痛みを全く感じさせないので痛点が人間とは全く違うのかな?って思ってしまう

僕自身スポーツをずーっとやっていたので骨折は何度もしている…が…
絶対に一生忘れない骨折がある。

あれは中2の夏休み

当時サイクリングブームがあり僕は超大金持ちの息子である友人のパーツグレードアップのおこぼれでそれなりの高級車を完成させていた
今のロードレーサーと違い下の写真の用にバッグとかが付いていたので20kg以上あったと思う。

休みの度にツーリングと称して江ノ島や相模湖、津久井湖に行っていた。
沢山の人がツーリングを楽しむのが流行っていたので対向車線の人達とすれ違う時に手を挙げて挨拶をするのが、何となく大人の仲間入りをさせてもらっているようで心地良かった記憶がある。

物事は慣れた時が1番危ないというけれど正にそうだった。
確か相模湖から帰って来た時にそれは起きた。
うちの前の側溝が普通より広くなっているのもわかっていたはずだったが…
気付いた時にはその側溝に前輪がハマり宙を飛んでいた…5mくらいは飛んだと思う。
着地を両手でするという最もしてはいけない、オマケ付きで…

みるみる腫れて行く両手を見ながらヤバいなとは思ったけれど、その時はわからなかった。
10本 全部折れている事なんて…笑

翌日から僕は自分で何も出来ないドラえもんになった。
ちょうどお盆くらいのタイミングだったので半月あればそれなりにどうにかなるだろうと思っていたのは甘かった…

1番辛かったのはトイレだ。
40年も前の事だからウォシュレットなんてある訳もなく和式のトイレだった。
全て母親がやってくれた…小も大も。
思春期の中2がお尻を拭いて貰うのはなかなか辛い事だが自分で出来ないのだからしょうがない…1番辛かったのは間違いなく母親だし。

学校が始まる頃にはギブスが発酵していて自分でうんざりするくらい臭かった 笑
おしっこくらい自分で出来ないとダメだと思い家でトライした時に上手く維持出来ずギブスに大量にかかったのが原因なのは母親には内緒にしていた  笑笑

それから1ヶ月後くらいにギブスが外れるまで本当にクラスメイトに迷惑をかけた。
あまりに臭いから学校では両手にゴミ袋を被せてガムテープでぐるぐる巻きにしていた。
給食は隣りの席の女子が食べさせてくれた。
トイレはさすがに大は我慢したが小は無理なので体育の先生が持ち係として交替でやってくれた。
今、思うと…休みじゃダメだったのかな?

っていうのが僕の青春の1ページに深く刻みこまれている骨折の思い出です

24歳 厄年に20人の研修医の前で浣腸をされる編に続く…

ではまた🐕🐕🐕


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