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なりたい"自分"になる方法

西水美恵子の「あなたの中のリーダーへ」という本を読んだ。本の本筋とは関係ない話で恐縮だが、「火星人と同時通訳の涙」という章で、日本語と英語の違いについて興味深いことが書かれてあった。以下、引用してみる。

曲線的で曖昧さが美しい日本語とは反対に、英語は直線理論的な言語だ。表現に上品と下品、丁寧と乱暴の違いはあるが、尊敬語や丁寧語、謙譲語はない。そのうえ、うれしいことに言葉の性別も皆無だから、どうしても英語が勝ってしまう。
英語なら相手が誰であろうと意見を率直に伝えやすい。情熱や怒りのような感情も、理に適うように表現しやすく、気持ちのいい喧嘩が可能になる。ハートに訴えるスピーチさえも、随分と楽になる。つまり、英語で話すほうが好きなのだから、日本語での苦労は自業自得であろう。

伝えたい内容は同じはずなのに、英語で伝えられることが、日本語になると上手く伝えられないことがあるという。その逆もきっとあるだろう。バイリンガルなら、日本語でも英語でも同じように伝えられると思い込んでいた私には驚きの事実だった。

もしそれが本当なら、英語で話すときと日本語で話すときでは、相手の聞く印象は変わってくるのではないだろうか?同じ人が話すのに?とても興味深い。

こんな仮説を思いついた。「日本人が日本人らしいのは日本語を話すから」

日本語は日本の風土や文化に合わせて発達した言語であり、日本人が日本語をつくったことに異論はない。

でもこうも考えることができる。"曲線的で曖昧さが美しい"日本語を使うことで、"曲線的で曖昧さが美しい"日本人になったのではないだろうか?

日本語が日本人らしさをつくる。

例えばもし日本人がみんな英語を使えたとして、そしてみんなが明日から英語を話すようになったら…。5年、10年と長い時間が経ったその時、日本人は今の日本人のままなのか?英語的な考え方を身につけた日本人になるのではないか?

だから日本語を大切にしなければとか、だから英語を使えるようにならなければとか、言いたいわけではない。

私がここで取り上げたいのは、自分とは何なのか?という問い。自分とは、自分以外のもので成り立っているのではないか?

"自分"という輪郭は、自分で描いているようにみえて、実は自分を取り巻くものにかたどられた結果として"自分"が在るのではないか。日本語を使う自分というのも、"自分"という輪郭の一部だといえる。

日本語を使う自分、家族の中の自分、社会の中の自分。そういった関係性の中にこそ、"自分"というものがあるのだと思う。だから自分を変えたいのなら、自分が変わるのではなく、周りとの関係性を変えていかなければならない。

例えば環境を変える。例えば人間関係を変える。
例えば英語を使ってみて、英語的な思考を手に入れるとかね。

なりたい"自分"になる方法、実はこんなことではないかと思っている。

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