檸檬堂が似合う大人になりたかった

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「なんでもいいから、ぜんぶ俺に投資しろよ」


 東京は雨が降っていた。昨晩から降り出した雨雲はあっという間に都心を覆い尽くし、超高層ビル群は洗車後のサイドミラーみたいに水滴をキラキラと身にまとっていた。

 路上に落ちていた缶を蹴っ飛ばす。砂利のついた缶チューハイは甲高い音で跳ね転がり、中にたまっていた泥水が吹き上げて革靴に小さな染みをつくる。

 小さなため息は、誰にも聞かれることなく雨音に吸い込まれていく。

「スト缶に溺れていいのは、弱えやつだけなんだよ」



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「スト缶よりさ、檸檬堂が似合う大人になりなよ」


 檸檬堂が似合う大人、ね。

 檸檬堂───コカ・コーラグループが初めて出したアルコール飲料、自社の果汁飲料の製造技術を活かした逸品。和風のデザインが競合製品と一線を画し、販売わずか半年で大ヒット、ブランドの位置を確固たるものとしている───。

 なんてことを知ったのはごく最近で、檸檬堂なんか見向きもせずコンビニでスト缶を買い続けていたあの頃。灰色と黄色のペンキをぶちまけたような色彩、センセーショナルにかかれた「氷点下196℃」、そんな駅の点字ブロックみたいなデザインが、あのときの俺は意外と好きだったのかもしれない。

 

「うーん、そういうんじゃないんだなあ。なんていうか、檸檬堂が似合う大人ってかさ、あんまり男とか女とか言いたくはないんだけど、檸檬堂が似合うような男になればいいのに、みたいな?」


 レモンが似合うような、男。







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「…ちょっと、違う、かなあ」


 違うのか。


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 蹴られて凹んだスト缶は、不格好に傾いて止まる。雨は缶が転がってようが止まってようが容赦なくうちつけ、下の面になった鮮やかなレモンはすぐ泥に覆われていく。


「檸檬堂が似合う大人になりなよ」


 そう言ってくれたあの人は、次の年に退社した。同期の入社で、真面目でよく気がつく人だった。部署の違う俺たちは、たまに飲むほど仲が良い訳ではなかったけど、一年目の忘年会の二次会で、久しぶりに口を開いた。


「この前ひどく怒鳴られてたよね。営業は大変だね、やることが多くて」

「見られてたんだ、恥ずかしっ! 俺のアホなミスでさ~上司の澤山さんも普段は全然良い人なんだけど、あん時ばかりはしこたま怒られた。ってお前人事だよな、そこちょっとあんまり掘り…」

「うーん、あの人、別にミスに怒ってるわけではなかったと思うよ?」

「…」

「それはたしかに直接のキッカケかもしれないけど、なんだかこう、うまく言えないけど──」


 隣の卓がどっと沸く。ノリの良い新卒が、何か一発芸をやっているみたいだった。そういうことに何となく馴染めない俺は、いつも若干距離を取るようにしていた。


「なんだかさ、いつもどこかを見ているみたいだよね。遠いどこかを」


 遠い、どこか。どこか。

 あの頃の俺にはたしか、独りの理想があって、熱があって、怒りがあった気がする。ずっとどこか、遠くへ行きたかったのかもしれない、本当は。


「えっとね、なんていうんだろう」


 一度グラスを傾けた後で彼女は言った。取り立てて美味くもないレモンサワーだった。


「私たちは、完璧じゃないんだよ」



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 その人は、前の冬に退社した。周りに迷惑をかけるのが悪いからと有給を全く使わず、最後の日まで出社してからすっと消えた。原因は上司のパワハラだったのは皆が知っていて、それでも誰も何も言えなかった。

 雨が降っていた。

 遠ざかる灰色の傘を、俺は窓越しに、何も言えずに見送った。



「何が『人事は失点が少ないから』、って」

「───なんのために、」


 水滴が窓をつたって、下に落ちていく。



「ごめん、檸檬堂が似合う大人には、なれなかった」


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 もうすぐ夏が来る。これからが本格的に梅雨です、という感情のない気象予報士の声を聞きながら、何気なく外に目をやる。

 アパートの窓からは遥か彼方に摩天楼がぼんやり見えて、雨に洗われているビル群の頭を、すき間なく曇天が覆っていた。



 あのスト缶、まだどこかに転がってんのかな。







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