タヌキの親子見聞録 ~萩往還編②~ 国境の碑~佐々並市
第1章 父ダヌキも応援する
2022年7月29日に萩往還(天花坂口~国境の碑)を歩いたタヌキ親子は、萩往還を攻略すべく、次の機会を虎視眈々と狙っていた。というと、タヌキ一家が全員乗り気だったように思われるだろうが、実際は母ダヌキ一人が、せっかくの夏休みにどこにも行けず、何もしないまま過ごしてはならないと計画を練っていた。しかし前回の旅で痛感したのが、帰り道の辛さである。せっかく目標まで歩き切ったのに、出発点に戻らなければならないというのは、時間的にも体力的にも無駄に思われ、帰り道の足取りを重くしたのだ。第2弾は「国境の碑」からのスタートである。また母ダヌキが車で「国境の碑」近くの駐車場まで車で行くと、そこまで歩いて戻らなくてはならない。「協力者が必要だ」と考えた母ダヌキは、一人存在を忘れていた。父ダヌキである。父ダヌキの協力が得られれば、仕事前に「国境の碑」近くの駐車場まで送ってもらい、目的地である「佐々並市」でバスに乗って帰るという計画が立てられる。早速父ダヌキに計画を持ち掛けると、二つ返事で了解を得られた。父ダヌキにしてみれば、夏休みに子ダヌキたちと一緒に体力づくりをしようと歩かされるより、仕事前の少しの時間だけアッシーをするほうが、身体的にも精神的にも楽であった。「応援するよ」と言いながら、父ダヌキはほっとしていた。その計画を聞いて騒いだのは兄ダヌキである。「なんでまた歩くの!もういいよ!」と断固拒否の姿勢をとったが、「夏休みの宿題の自学ノート25ページ分何書くの?萩往還を歩けばいくらも書けるじゃん‼」という母ダヌキの提案に弟ダヌキが乗ったため、兄ダヌキも渋々と計画に参加することにした。
「じゃあ帰りにソフトクリーム食べさせてくれる?」
第2章 お守りの鈴はやはり必需品であった
2022年8月3日水曜日午前8時頃、母ダヌキ、子ダヌキ2人は父ダヌキの車に乗せてもらい山口市の「国境の碑」近くの駐車場に降り立った。父ダヌキに手を振ると萩往還と彫ってある石柱前で記念撮影をし、国境の碑から佐々並市までのルートを歩き始めた。
今回も香山公園前観光案内所でもらったパンフレット「歴史の道 萩往還 ルートマップ」をテキストに歩き進めようと、母ダヌキが「ルートマップ03 佐々並市~防長国境」のページを開いた。ページ左下に「国境の碑」とあるのだが、そのすぐそばに赤字で「熊に注意」と書いてある。母ダヌキは、子ダヌキの背負っているリュックを見た。前回ウェストポーチに付けていたお守りの鈴が、本日持参のナップサックには二人ともついていない。
「しまった‼こんな早朝に、こんな山道を歩いていたら、間違いなく人より熊に出くわす確率が高いぞ」と開始早々頭を抱えた。なぜリュックにしたかというと、本日のコースは前回よりも長く、水分・栄養補給のためペットボトルや飲むゼリーをみんなが分散して携帯しなければならなかったからだ。「よし!ここは声を出して行こう!」と母ダヌキは大きな声で言うと、弟ダヌキは大きな声で「さんぽ」の替え歌を歌いだした。母ダヌキは手を叩きながら合いの手を入れて、静かな山間の道を騒音をたてながら歩いた。思春期に突入した兄ダヌキは「恥ずかしいからやめろ!」と騒いだが、母ダヌキも弟ダヌキも「熊に殺られるよりマシ」と構わず大声で歌や手拍子を打ちながら歩いて行った。10分ほど歩くと「吉田松陰先生東送之碑」と刻んである石碑に着いた。ここは、吉田松陰が江戸へ送られる際に休息をとった場所とされている。すぐそばには「萩往還夏木原交流施設・21世紀の森夏木原キャンプ場」があり、道沿いから公園のような広場と、交流施設であろう建物が見えた。しかし、人の気配は全くしなかった。朝の涼しい時間帯に、なるべく長い距離を歩いておいたほうがいいので、タヌキの親子は先を急いだ。
第3章 木陰から炎天下へ
山間の道を下っていくと、左手に田んぼや人家が現れた。頭の上を覆っていた木々が無くなると、熱気がそのまま体に降り注ぎ、ついでにアスファルトからの熱気も下から絡みついてきた。まだ9時前なのに暑さが厳しく、立ち止まりながら水分補給をこまめに行った。蝉の声が耳のすぐそばで鳴いているようにうるさかった。
出発から50分位して「上長瀬一里塚」に着いた。一里塚は、徳川幕府開設直後の慶長9年(1604年)に江戸の日本橋を基点として、全国の主要街道にその築造を命じたのに始まるといわれる。萩往還には12基が設けられ、ここ「上長瀬一里塚」は萩唐樋札場から5里(約20km)の地点に当たる。一里塚は路傍の緩斜面に不整形な大小の岩石を集積して墳形をつくり、かつては半球形に近い整った形であったと思われる。ここ「上長瀬一里塚」はほぼ原型をとどめており、数少ない近世の交通関係遺跡として貴重である。この一里塚の木陰で少し休息してから、県道62号線沿いの道を歩きはじめた。
炎天下の中を歩いていくと、見覚えのある青い看板を発見した。「歴史の道 萩往還 首切れ地蔵まで290m」と書いてある。少し右を見ると、遠くに国道262号線が見えた。そのまま歩き進むと、イヌイットの家のような半円形の石の建物が見えてきた。「日南瀬の石風呂」の復元したものである。風呂の原型というべきもので、この中で火を焚き、底の石を焼いて、その上に萩の海岸から運んだ海藻を敷いてその上に着物を着たまま休んでいたそうだ。今のようにお湯につかるようになったのは、江戸中期以降といわれている。子ダヌキたちは入口をのぞいてみたり、まわりを触ってみたりしてみた。その近くに首切り地蔵があり、そこ通り過ぎると国道262号線へぶつかった。時刻は9時半をまわっていた。
第4章 灼熱地獄の国道262号線
「吉田松陰先生東送通過之地」で記念撮影をして、国道262号線を佐々並市へと歩く。
いつもなら子ダヌキたちはお互いにちょっかいを出し合いながら歩くのだが、ひどい暑さのせいで無口である。特に一番背の低い弟ダヌキは、アスファルトの照りかえしをもろに受けて、ふらふらしながらタヌキ一行の最後尾を歩いている。兄ダヌキは文句を言うが体力はあるようで、一番先頭を歩いている。その間を母ダヌキが両方の様子を見ながら進むといった具合だ。国道沿いを歩くので、さっきの県道とは違い車の量が多く、気を付けて歩かないとならない。「車に気を付けてね。大丈夫?」のっそりのっそり歩く弟ダヌキに声をかけ、母ダヌキは少しでも負荷を減らしてやろうと、リュックを弟ダヌキの背中から取り上げた。国道沿いの萩往還もきちんと水路が整備されていて、休憩するときに聞こえる水音に涼を分けてもらいながら何とか灼熱の国道を歩き続けた。
国道を歩くこと30分以上。「国選定重要伝統的建造物群保存地区 萩市佐々並市」と刻んである石柱があり、国道から木陰の脇道へ案内する青い看板も見えた。「やっと日陰の道に入れる。あと少しよ!」と子ダヌキたちに声をかけ、飲むゼリーで栄養補給しながら休憩した。さっきまでのアスファルトの道から草むらの道になって、蛇とか虫とか少し怖かったけれど、直に感じられていた熱気が弱まり自然のありがたさを実感した。道端に祭ってあった「道祖神(さいのかみ)」にお参りすると佐々並市へと入っていった。
第5章 やっぱり塩が好き
「佐々並市頭一里塚」を通り過ぎ、「佐々並市」に到着した。江戸時代の佐々並市は、往還沿いに茅葺の民家が立ち並び、周辺には田畑が広がって、「御茶屋」とともに上級藩士などが宿泊する「御客屋」や人馬継立をおこなう目代所があり、江戸時代を通じて萩藩の宿場町として維持された。人気がない佐々並市を次回の出発位置確認のため歩いていると、「はやし屋」と書いてあるお店が見えた。ここは「ささなみ豆腐」が有名な店であり、もともとは旅館で維新の志士たちも宿泊したらしい。その「はやし屋」がある通りの向かい側に萩往還を旅する人向けの休憩所があったが、水曜日が定休のようで中に入れなくて残念であった。中でお茶することができたり、パンフレットが置いてあるようだった。
次回のスタート地点を確認すると、タヌキの親子は念願のソフトクリームを食べるため道の駅あさひに向かった。最初はソフトクリームを食べる予定であったが、道の駅に着くとおいしそうな唐揚げがあり、なぜか唐揚げとお稲荷さんになってしまった。散々汗をかいたので塩分が必要であったのだろう、誰もソフトクリームが欲しいと言わなかった。道の駅の外にあるベンチに腰を掛け、唐揚げとお稲荷さんと麦茶で昼食をとった後、12時48分のバスが来るまでベンチで休憩をした。
第2弾は萩往還(国境の碑~佐々並市)の旅は約7.5kmで2時間半の旅であった。帰りのバスにはタヌキの親子以外人は乗車しておらず、涼しくて快適なバス旅であった。JRバスは夏休み中、小学生は全区間50円で乗れるためとてもお得で、母ダヌキの懐も快適であった。
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