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「日々、」#10 鉛筆を削るように

 6月、北海道は初夏とも春とも感じられる季節だった。

僕の学んでいる大学の科目でデッサンがあり、通信ゆえ本来は一人で動画を見て取り組むものなのであるが、せっかくなので画家として活動しているパートナーを呼んで鉛筆の削り方から何から、マンツーマンで教えてもらうことにした。

デッサンを体験したのはおそらく高校とか中学とかの美術の授業で、本格的なデッサンはおそらく初めてだった。

今回のデッサンは納得するまでモノを見て見て描いて描いて。
三日間ほぼ引きこもって描き続けた。

最初のカッターで鉛筆を削る作業がとても印象的で、要は鉛筆を削る作業というのは「描く道具を自分で作り出す」作業。
指にあてて痛みを感じるまで先を尖らせる。
果たして僕は写真を撮っているときにここまで被写体に対して丁寧に向き合っただろうかと考えさせられた。

デッサンを終えてからもしばらく、その感覚は消えず、どうにも見逃せない何かが頭にへばりついてしまったようで色々と観察する習慣がついた。

今、僕らはカメラに頼る表現をしていて、そのカメラは誰かが作ったものだし被写体に対して絞りだのシャッタースピードを変えたりというのはあるものの、その行為には操作という言葉が似合う。
感覚的には鉛筆を削るのは操作ではなく体の延長線上を創る行為だった。

どんなにテクノロジーが進化しても「0と1」や「化学の力」では世界のコピーは作れないし、人の感情が混じってしまうとそれらが記録と言えたとしても果たしてそれがどこまで信用できるものなのか、というのは疑問である。

もちろん、人のエゴや感情も記録されていると思えばそれは一つの正解かもしれないが、それはモノで共有できるのか?とは思う。

僕らは第三の何かを挟んで頼ることでしか「残す」ことができないのだ。事実、教科書の歴史もひどく曖昧で、少ない資料で推測するしかないところも山ほどある。

じゃあ、この目に映るのはなんなのだろうと。
美しいと思った感情はなんだったんだろうと。
記憶とはなんだろうと。

その答えは最近になってわかったきた気がする。

野暮なので具体的には書かないが、きっと光は鉛筆で、網膜はキャンバスだったのだろうと思った。

そのことに気がついた時、僕は春の光を初めて見れた気がした。

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