無題83

1作目:『物語りが閉じない』

 太宰治の『春の盗賊』を例に挙げて、白髪で刈り上げ頭の中木教授は、すべてがフィクションであること、について、また、そうであるならば反転してすべてがリアルであること、について、少しだけ声を張って説明した。少しだけ。

 まだまともに大学に通っていた頃のUSBを引っ張り出すと、中から大量のファイルが出てきた。それらの多くは書きかけで、なにかの話の導入や、気まぐれで書いた日記、レポートとかだった。それは例えばこんなだった。

ファイル名:『1C-0101、軍艦講堂の怠惰』

 誰かがまたため息をついた。文系棟8番教室は今日もくすんだ空気を内包している。文系棟でいちばん大きいこの講堂の、いかれてる空調と窓のない構造が、学生たちが持ち寄ったため息や飲みかけのお茶、雨とほこりが染みこんだコート、古本、とにかくそういったくだらないものが放つにおいを溜めこんでいる。

 この講義室を含む文系棟全体は「軍艦講堂」と呼ばれている。その理由は、四角い中庭にぽっかりと浮かぶ赤茶けた台形の外見(雪がひとしきり中庭に積もると、学生はこの建造物を見上げて時々はっとする)のせいでは実はなく、軍艦か何かになぞらえたくなる、この箱の中に充満している空気の閉塞性や薄暗さのせいだな、と、真ん中の列で埋没している女子学生は考えた。また誰かがため息をつき、左側後方の扉からニット帽の男子学生がこそこそと教室に入ってきた(一瞬、外の空気が入り込んだ)。男は丸めたチェスターコートを抱えて、何となく背を屈めながら、教室中央にすわる友人の席の隣まで、他の学生をかき分けて進んでいった。そいつに押されて、誰かが殺気をこめたため息をついた。

 鯨の腹を思わせるV字型の天井の下、アゴタ・クリステヴァはパソコンをプロジェクターに繋げる作業(彼女曰く、「私はいま、未知のtechnologyに翻弄されている」)に苦心している。3限の授業開始時刻はとっくに過ぎているけれど、クリステヴァ女史(この「家族政治学概論」に出席したことのある学生の多くは、なんだか彼女は女史と呼びたくなるような雰囲気をまとっているな、と感じる)は、いつまでたっても授業スライドをスクリーンに映せずにいて、周りの学生を総動員していろんなプラグを挿したり引っこ抜いたりしていた。

 またある学生は、その光景を漫然と目に映しながら、さっきから1C-0101:ポプラ文庫という文字列が頭に浮かび続けていた。いちしーのぜろいちぜろいち。いちしーのおいおい。お昼時に駅前の紀伊国屋で彼は、在庫検索の結果表示されたこの棚番号のある列を見つけだすまで、ずっと1C-0101と頭の中で復唱していた。目当ての文庫本は無かった。不思議に思ってもう一度在庫検索の端末のところまで戻ったが、やはり棚番号は合っているし、「前日の在庫数:1」とあるし、しかし本は棚に無かった。がっかりしたまま大学へ向かった。彼にとってはもう覚えておく必要の無い1C-0101が、ずっと頭の中をぐるぐるまわっていた。誰かがため息をついた。

 ある学生は、そんなふうに他の学生たちのことを妄想しながら、読みかけていた本に再び目をやった。

 君が思った通り、たぶん、そうそれは彼が今朝買ってきたばかりの文庫本だろう。そして誰かがため息をついた。

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