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【観劇記】Prayer Studio「Cripple Of Inishman」【ネタバレ】

マーティン・マクドナーが大好きである。
イニシェリン島の精霊」も「スリー・ビルボード」も最高ではないか。

ところでマクドナーさんは元々は演劇の人だと知って驚いた。いつか舞台を見てみたいなあと思っていた。
Prayers Studioが上演すると聞いて大層興奮した。速攻でチケットを買った。

この素晴らしいイラストの作者はビリーを演じた岡本弦氏だとか。どんだけ多才なんだ。

面白かった。
衣装と装置が素晴らしかった。翻訳物を上演するとき、真っ先に障害になりそうな2要素が、見事に観客を作品の世界観に誘う装置として機能していた。すごいことだと思う。
充実した役者陣のなかでの小林的MVPは、気の荒い船乗りを演じた小八重智氏。

ベビーボビー:小八重智氏

朴訥でぶっきらぼうで割と物静かだけれども熱い哀しみを持った男を見事に演じきられていた。その存在感と声量のボリュームが小屋のサイズとベストマッチだった。ろくでもない世界に相対した彼の心情がガンガン伝わってきた。素晴らしい芝居であった。

そしてホン。
すごいホンだった。
マーティン・マクドナーだからすごいのは当たり前かもしれないが。
私はすっかり騙された。


あらすじ

舞台はアイルランド・イニシュマーン島。
可愛いのに乱暴者のヘレン、おバカなバートリー、噂話を売って生計を立てるジョニーなど、ここに住む住人は個性豊かな面々ばかり。偽のおばさん2人に育てられた孤児のビリーは『"かたわ"のビリー』と呼ばれている。

ある日、島の住人にビッグニュース舞い込んでくる。
「ハリウッドから映画の撮影隊がやってくる」
「もしかしたら映画に出られるかもしれない」
皆が色めき立つ中「かたわが選ばれるわけがない」と
笑いものにされるビリーだったが、思い切った行動に出る!
アカデミー賞、ゴールデングローブ賞受賞
映画監督としても名高いマーティン・マクドナーによる
ブラックコメディの傑作戯曲。

公演フライヤーより

コントラスト、対比、その距離のぶっ飛び方

一見しての感想。
この作品のキモは「対比」だと思った。
大きなコントラストがふたつある。

対比その1/ブラックかと思ったら超ホワイトなプロット

前説でPrayersの山中氏が「コンプラガン無視のブラックコメディ」と言っていた。確かに、開けっぴろげな悪口雑言、あっさり行使される暴力、無知と偏見と閉鎖性に満ちあふれた噂話、聖職者による性的幼児虐待、などに彩られた、とてもブラックな島の日常が描かれてはいる。
しかし、プロットを支配しているのは「身勝手なふるまいは罰せられる」とか「何時の隣人を愛せ」とか「サメを許してやれ」とか、極めて古典的なモラルである。勧善懲悪ものと言っても差し支えないぐらいである。

まず主人公ビリーの両親。
障害を持って生まれた赤ん坊のビリーを海に沈めて殺そうとして、誤って自分たちが溺れ死んでしまう。
(この死因は劇中明示されていないがおそらくそうだと思う)

主人公ビリーは、かなりヒドイ計略で島を脱出するが、アメリカでのびのび暮らすという目的は果たせずに帰ってきて、騙した相手にボコられる上に、片思いの相手にキスされたと思ったら結核が悪化して多分死ぬ。

この島では、身勝手な振る舞いは罰せられるのだ。コンプラガン無視どころか、とっても保守的で古典的なモラルに沿ってプロットが展開される。
これが第一の対比=コントラスト。ブラックな道具仕立てとホワイトなモラル。


対比その2/人間はストーリーの道具じゃない

この物語の登場人物は、見た目通りで無いことが多い。と、言うか我々観客はミスリードのジェットコースターに乗せられてしまうのだ。

特に顕著なのがこの2人。かたわのビリーと噂を触れ回るジョニー。

ビリーは結構深刻な身体障害を煩っていて、島中の笑いものでいじめられっ子で生まれながらに戦力外通告をされている。
性格は引っ込み思案で大人しい。「舐めダルマ親方」を自称する我が本邦の乙武氏のように堂々とは全くしてない。
ので、我々観客は、ビリーは無垢な魂の持ち主だろうと勝手に思ってしまう。
純粋な心の弱者が生涯負け続けの運命に抗い、一世一代の賭けに出るのを応援してしまう。
しかし後半、彼は実はとても狡猾なエゴイストであることが判明する。フォレストガンプかと思ったらハンニバルレクターだった!みたいな驚きがある。

一体何をして生計を立てるのかさっぱりわからない噂屋のジョニー。
村中にくだらない噂を言いふらすことが生きがいのようだ。
ありとあらゆることを知りたがり、仕入れたニュースを思わせぶりに語り、
時には迷惑がられ、時にはボコられ、どうやら村中から軽蔑され煙たがられている。我々観客は、自分の身の回りの軽薄で口の軽い奴を思い浮かべ、神様どうかこのバカに罰を与えてくださいと願ってしまう。
ところが終盤で、ジョニーは誰よりも高貴な魂を持っていることが判明する。
四六時中くだらないことを喋りまくる道化者が、実は自分の本心を全く明かさない、非常に誇りの高いナルシストであることに驚かされる。

ヘレン:佳木千歩氏 ビリー:岡本弦氏

また、尻軽暴力女子のヘレンもとても印象的なキャラクターだ。
弟をボコる、神父にケリをくれる、商売道具の卵をぶん投げまくる、言葉は汚い上にすぐ怒鳴る。おまけに尻が軽くて、目的のために好きでもない相手にも「キスしてやるよ!」とかすぐ言う。どうしようもない女の子。
ところが彼女が乱暴なのは、幼少期から神父に性的な虐待をされ続けたから自衛のためにそうなったことが暗示される。
いつもボコっている弟のことをとても大切に思っている。
そしてなんと、尻軽の筈が実は処女らしい。「ヘレン。君のことが好きだ」と誰も正面から彼女に向き合わなかったのだろう。今までは。
まっすぐな思いにまっすぐ応える彼女の様子は、とてもとても魅力的だ。

このように本来人間というのは多面的なものだ。完璧な悪人も純粋な善人も存在しない。
しかし、物語の登場人物になると、ある一定の機能を果たさざるを得ない。

ヒーローズジャーニー、ただし本作で旅するのは観客

古典的な物語では、主人公はなんらかの欠落に突き動かされて冒険の旅に出て、修行して龍を退治して、傷を負ったり、栄光を手にしたりして、帰還する。
田舎の若者がロボットを拾ってお姫様を救い、戦士として覚醒して帝国の巨大兵器を破壊する。(スターウォーズ)
ヤクザの使いっ走りにまで落ちぶれたボクサーが、ふっと転がり込んできた強敵との対戦に奮起し、戦いを通して再起を賭け、善戦して自分への尊敬を取り戻す。(ロッキー)

「Cripple Of Inishman」も、一見するとそういう構造になっている。
なっているが………..実は主人公のビリー、物語に登場したときと退場するときの落差って、そんなにない。ルークスカイウォーカーやロッキーバルボアと比べると、もうホント誤差の範囲。

この戯曲は、主人公じゃ無くて、作品に向き合う我々観客の視点に変容を強いるのだ。
「この人、思ってたのと違う!」
そういう、我々観客の驚きがプロットを駆動する。そのミスリードの手並みがあまりに見事で、本当に驚いた。
実生活でも、ムカつく奴の意外な一面を知るとどうもそいつのことが気になってしまったりするではないか。
本作の主人公ビリーは、一世一代の賭に出た生まれながらの弱者のままではない。カイザーソゼのような変貌を見せてくれる。
彼は、してはいけないことをして破滅していく、リチャード三世やマクベスのようなダークヒーローなのだ。


そしていよいよ実演


ここまでが、鑑賞後の感想。本稿の本論はむしろこれからである。
なにしろ私が鑑賞したのは「ドラマトライアル」の回だからだ。

唯一無比の試み「ドラマトライアル」

  1. 演者さんによる演劇作品をまず「鑑賞」

  2. 観客みんなで感想考察を「シェア」

  3. さっき見たばっかりの作品を実際に自分で「演じてみる」

わたしは噂話屋のジョニーをやらせてもらった。
そしてまた驚いた。
村のメンツがほぼ揃って居るであろうなかば公の場で、
精神のバランスを崩した老女にうっかり残酷な真実を告げて、
気の荒いのにボコられる、というシーン。
セットに入って、ホンは手に持ちながらだけど、実際にジョニーのセリフを喋ってみて驚いた。
うっかり残酷な真実を告げたように見えたが、違った。
哀れな老女の気持ちを落ち着かせたいという一心から、道化のふりをして、気の荒いのからボコられるのも承知の上で、あえて汚れ役を買って出たのだ。そしてその動機を、道化の仮面で隠し通そうとするのだ。なんと誇り高い男だろうか。
弱った老女が精神に異常をきたして、それでも悲しみだけはたっぷりと感受していて、その横に座っていたわたし/ジョニーの胸に地獄のような悲しさ切なさがこみ上げたのだ。気がついたら、残酷な真実を老女に告げてしまっていた。
おそらく、全編こんな調子なのだ。きっと。やってみなければ決してわからなかった。哀切極まりない日常的な悲劇の繰り返しなのだ。この戯曲の本質は。
絶海の荒れ果てた島。ろくに作物も育たない。そこにびょうびょう吹く風に、もろにさらされて村人達は生きている。必死に。肩を寄せ合って。
罵り合い、ボコりあい、ペットを殺しあったりもするぐらいろくでもなくあけすけな暮らしだけれども、お互いを思いやる気持ちは本当に深く、揺るぎない。それがおそらく繰り返される「アイルランドも捨てたもんじゃない」というセリフの意味なのだろう。
こんな悲しい話だとは、こんなに大きな愛に溢れた島だとは、観ているだけでは絶対にわからなかった。

実際のセットのなかでやらせてもらえるのだ

マクドナー作品の根底にはとてもとても大きな愛がある。
比類なき仕掛け巧者なのも事実だけど、だから売れてるわけではないとおもう。

素直に感動できるんだよ。

ちょい反省

それにしても、トライアルとはいえ自分の芝居のまずさには閉口した。
ただ単に自分の心身の癖に寄せただけで、あれでは芝居とさえ言えない。
ジョニーが立ち上がる前に終わってしまった。
ホンのセリフという「文字情報」を役の「衝動」に変換するスピードが遅すぎる。もっともっと身体を開かねば。

そんな反省も含めて、prayersのドラマトライアルは本当に希有な試みである。
なにしろ、日常の自分から(おそらく1930〜40年の)アイルランドの貧民への転生を体験できるのだ。そんなところに転生しても、人間の情動としては全く共感できる。
ちまたでは「異世界転生」モノが大商いになっている。
創作の裾野を広げてるのは本当に素晴らしいことだ。
しかし、私としては、コンテンツとしての異世界転生を消費するよりも、心身を投げ打って役に転生する「芝居」の面白さを、今後も追求していきたいと、あらためて思った。

Prayersの次回作が本当に楽しみだ。


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