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短編小説#6 うどんを食べる話

 夏の終わりのこの時期は夕方にはすっかり肌寒くて、僕は仕事終わりの疲れた体に鞭を打って家路についている。こんな夜にはあたたかいものを食べてゆっくり寝るに限るのだ。幸い明日は休みで自宅の冷蔵庫には大好きなビールが待っている。ついでに唐揚げなんかも買って帰ってもいいのかもしれない。そんな思いを膨らませながら薄暗い路地を抜けると、いつも通りかかる小さな店が目に入った。手打ちうどんと大きく書かれた暖簾が目を引くその店は、いかにも昔からその場所にありますと言わんばかりの佇まいで、前から気になってはいたものの入るには躊躇していた。
 毎日仕事帰りにここを通ると、出汁と油の匂いで僕を誘うのだ。しかし朝に見かける怖い顔の店主らしき人物が頭を過ってなかなか入店には度胸がいる。あとは地元住民のコミュニティにいきなり僕のような部外者が入ることにも躊躇いがあった。僕がこの土地に越してきてまだ半年、近所の人と挨拶をする程度のことはあれど関わる機会なんてほとんどないのだ。
 しかしそんなこと言ってばかりではいつまで経っても地元に馴染めないし、御飯時の混雑が予想される時間まではあと一時間ほどあり、何と言っても明日は休みだ。
 僕はシャツの裾を少し伸ばして、古い暖簾を潜る。引き戸を開けて中を見やると、店内はやや古びた印象を受けるが掃除が行き届いていてとても綺麗だった。先客は作業着を着た男性一人だけで、緊張して入ったのに拍子抜けしてしまう。程なくして店の奥から出てきたのは鬼瓦、ではなく使い込まれた割烹着を着た愛想の良さそうな女性だった。その女性の店員に案内され奥のテーブル席に腰を下ろすと、安堵からか急激にお腹がすいてきた。どれにしようか、と壁に張られた手書きのメニュー表を見ていると、いつの間にかカウンターの辺りにコワモテの店主が経っていて驚いた。店主の目線の先は店の天井近くに置かれたテレビで、野球の試合が映っている。僕は野球には詳しくないのでわからないが、先ほどからバッターがヒットを打つたび作業着の男は残念そうに唸り、店主は小さく笑っているので二人は応援しているチームが異なるのかもしれない。
 そうこうしている間も僕の胃は空腹の訴えをやめないので、観察もほどほどにさっさと注文してしまうことにする。カレー、月見、きつね、かけ、どれも魅力的で目移りしそうだったが、今日はどうしても油が恋しい。
「すみません、海老天うどんとおにぎりで」
 そう声をかけると、女性店員は愛想のいい声で返事をし、店主と共にカウンターの奥に入る。席からは見えないが、食器のぶつかる音や揚げ物の音が聞こえて気分が高まる。その中で、テレビから大きな歓声が聞こえる。作業着の男が応援するチームが負けているのか面白くなさそうにため息をついて水を一気飲みして席を立った。手早く会計を済ませ、二人に挨拶して出ていくのを店主は片手を軽く挙げて見送っていた。きっとこの店の常連なのだろう。昔から決まった場所に通うことがなかった僕はそういうことに少し憧れがある。しかし何となく店員に顔を覚えられることが気恥ずかしくて、「いつも」ありがとうございます、なんて言われたら次からそのコンビニはあんまり利用しなくなる。何故かはわからないが僕はそういうところがあるのだ。
「お待たせしました、器熱いから気をつけてね」
 そうこうしているうちに手元に運ばれてきたうどんを見て、僕の気分は最高潮だ。黄金色の出汁が匂い立ち、口内に唾液が溢れる。まずは木製のレンゲでその出汁を飲んだ。薄い色をしているのにしっかりと塩気と風味が効いた関西の味。我慢できずにうどんをすすると、柔らかいがコシのある歯応えでとても美味い。少量添えられた葱と共に食べるとなお良かった。勢いに乗って汁気を吸った海老天にもかじりつく。衣がふやけて柔らかいところと、揚げたてのサクサクとした食感が残るところとのコントラストがたまらない。中の海老も大きくて食べごたえも満点だ。隣のおにぎりはゆかりのふりかけが混ぜてあるものと、昆布が入っているもの。どちらも塩気が程よく、疲れた体には心地いいものだった。米の炊き加減はやや固めで一粒一粒がしっかり形を保っている。
 最後の出汁まで飲み干して、僕は胸の前で手を合わせた。満足した余韻をあたたかいお茶で楽しんでいると、再度テレビから大きな歓声が聞こえる。すると奥で黙っていた店主が身を乗り出し、「おっ」と一言漏らした。どうやら店主の応援していたチームの選手がホームランを打ったらしい。それを見た女性店員はにこにこと嬉しそうに店主と話していて、歳も近そうだしもしかしたら夫婦なのかもしれないと思った。
 体もあたたまって満足したので、僕はリュックから財布を取り出し立ち上がる。すると女性店員がやってきて会計をしてくれた。
「ご馳走さまでした、また来ます」
 そう残して店を出ようとすると、一言も話してなかった店主が「またどうぞ」と会釈をする。外はもうすっかり暗くなっていて、夏の頃のような明るさが嘘のようだった。女性店員が外まで見送ってくれていたのでお礼を言ってから僕は家までの道を急ぐ。遠ざかる出汁と油の匂いを感じながら、僕はまた来ようと思った。

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