大人になるということ

今年でもう26歳になる。

最近、何だか自分は大人になってきたんじゃないかと感じる。いわゆる成人としての大人である20歳からしばらくは、大人ってこんなもんかと半ば諦めていたが、25歳あたりからだんだんと自分が変わってきている気がする。

少しずつ、将来のことを考えるようになった。家族とか結婚とか仕事とか、ついこの前までは全く何も考えずにただその時々を過ごしていたけど、今は何かにつけて将来の自分が頭をよぎる。
どうなりたいか、どうしていきたいかまでの具体的なイメージははっきりとしていない部分もあるが、将来の自分を意識するようになっただけでも大成長である(自分に甘い)。

将来の自分、つまりは「大人な自分」を意識するようになったのである。最近、「大人になったな」と感じるまず前提として、「大人な自分」への意識が強まったことが大きく作用してるのではないかと思う。

じゃあ、「大人になる」っ何だろう。少し考えてみた。

もうすぐ丸3年になる仕事では、少しずつイニシアチブを持ちながら、業務を進められるようになってきたと思う。入社して1年は言われたことをただひたすらにこなすだけだった。3年目の今は、そんな状況から少しずつではあるが脱却し始め、自分の考えや意見を基に仕事を進めることも増えてきた。
この傾向は仕事だけではなく、日常生活にも当てはまると思う。

自分の意見という点で言うと、素直にイライラできるようになった。一見、イライラするとなるとネガティブなイメージを持つと思うが、今まで事なかれ主義で自分を徹底的に圧し殺し、いつも諦めていたぼくにとっては、自分の感情に素直になれるようになったという意味では必ずしもネガティブな要素だけではないのかなと思う。
怒りという感情は、ある意味自分の言動に対して肯定的であるということにもつながるのかなと。もちろんそれが、度を過ぎたイライラであったり、理不尽な怒りであったりするのであれば、論外だけれど。

ただ、そんな仕事のなかや日常生活のなかでも、やっぱりうまくいかないことも出てくる。前までは、そうなるともうお終いで、メンタルがどん底まで落ちて、あとは無策。そのうち勝手に底からあがってきて、メンタルが回復するのを待つしかなかった。
それが今はどうだ、休みの日はダラダラ過ごすとか、好きなもの好きなだけで食べるとか、自分で自分の機嫌を取ることができるようになってきた。メンタルがどん底まで落ちる前に、何かしらの策で自分を甘やかすことができるようになった。考えすぎず、いやこんなもんだよね、って思えるようななった。

先のイライラの件とは正反対になるかもしれないが、ある意味、これは諦めることができるようになったのではないかと思う。これもネガティブな意味合いではない。自分に期待しすぎず、自分の意見を通しすぎることもなく、良い頃合いで何かを諦め妥協することで、上手い具合のエネルギーの使い方を覚えてきた、とでも言おうか。自分の中でうまく折り合いをつけて、悪い方向への流れを良い具合に遮断できるようになった。

全ての人に通じることではないが、あくまで自分にとって、「大人になる」ってつまりこういうことなんじゃないかと思う。

一つは、「自分を認めることができる」ということ。
もう一つは、「自分を諦めることができる」ということ。

自分のことを褒めたり、自分の感情に素直になって怒ったり、自分の意見を基に動いたり、それはある意味自分のことを認めることができているということで、心身共に「強く」なっていると感じる。

一方で適度に力を抜いたり、時には逃げたり、甘えたり、考えすぎをやめたり、自分に期待しすぎなかったり、それはある意味自分なんてこんなもんだと諦めることができているということで、日々を過ごすうえでの「余裕」につながっている。

「認める」と「諦める」、正反対なことを言っているように思えるが、「大人になる」ことはその2つのバランスをうまく保っていくことなんじゃないかなと考えている。

さて、こんな偉そうなことを言っても、まだ26歳だし、これまでの人生よりこれからの人生の方がおそらく長い。
これからの人生で、上で述べたことなんてまるっきり変わってしまうかもしれない。

けどまあ、今この時に考えた「大人になるということ」を文字として残しておくのも良いかなと思って記した。

10年後くらいにまた見返してみようかな。これから自分はどんな「大人」になっていくんだろう。

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