何にでも山椒をかける人

 京都に行って、山椒がよいということに気づいた。

 何をいまさら、といいたい気持ちもよく分かる。うなぎはもちろん、焼鳥にだって、山椒は悪くない。ただ、こちら、というのは、関東であるけれど、こちらにいると、山椒にフォーカスが当たりづらい。つまり、甘いタレに山椒、ということだ。山椒はどぎつい味のカウンターパンチとしての山椒であって、お互いに殴り合いだ。

 甘いタレを突き詰めていけば、恐らく、砂糖に行き着くはずで、その行き着いた先の砂糖に対抗するために、山椒のビリビリがある。甘さの布団に包まれ、ただただ堕ちていこうとする、その瞬間に、電撃的に介入し、舌を正気に戻させるのが山椒ということになる。

 京都の山椒は、というほど、私は京都のことを知らないので、理解したようなかぎりでという留保をつけるが、京都の山椒は違う。

 京都の山椒は、国際協調主義といえばよいのだろうか。いずれにせよ、殴り合いではない。つまり、まず、出汁がある。その出汁は出汁として、そのままでも良いが、いかんせん京都の出汁なので、そこに狙いがあるとはいえ、輪郭が曖昧になることは否めない。横山大観であり菱田春草である。それはそれでいいとするほかないのだが、朦朧体との誹りを受ける余地は残る。そこで、召喚されるのが山椒だ。靄霞のその先に冴え冴えとした冷気を流し込み、光の出汁の輪郭をくっくりと浮かび上がらせる。これはなかなかいいものだ、と関東の人間は思う。

 こうして、京都から戻ると、出汁に山椒ということになる。大根を炊き、油揚げを乗せ、出汁をかけて山椒という王道を進もうとする。ああ、いい、と思う。娘にいいものを伝えられたと満足する。そこまでは、いいのだが、とはいえ、いかんせん、関東の人間なので、さらに行こうとする。公家の文化では物足りなくなり、もののふの血が騒ぎ始める。いざ、鎌倉というわけだ。

 鎌倉で何をするかといえば、とりあえず、口に入れるもの全てに山椒をかけるということになる。カレーうどんに山椒、というのは、別に間違いではない。そもそもカレーなどは、山椒の仲間が沢山入っているようなものなので、よく合う。紛れてしまうが、よく合う。国際協調主義である。さらに進んで、ぶり大根にかけてみる。そうなると、まあ、あれだな、と思う。関東の使い方だな、と思う。甘さにカウンターパンチとしての、山椒に帰着し、これは京都ではない。それで鎌倉から室町に向かうことにする。

 八ツ橋。娘がお土産に所望した八ツ橋にかけてみる。八ツ橋。どうだろうか。意外といい、これはいい。とてもいい。京都、阿闍梨餅でいいはずなのに、八ツ橋になってしまい、居心地の悪くなっていた自分としても、これならば、いいのではないかと思う。ニッキと山椒の国際協調主義である。京都のものならば、いいようだと結論する。そして、コーヒーに入れてみる。京都は、コーヒーであり、中華であり、親子丼であるのだが、目の前にあるのは、コーヒーなので、コーヒーに山椒。これは。実は、いいのではないか。コーヒーの香りが屈折する。そちらに行かはるのもええかもしれまへんが、こちらもええですわ、というような京都のタクシー運転手。もしかしたら、いけずかもしれない、しかし、ただの親切かもしれない、路線変更の勧め。賛否はあるかもしれないが、これは認めたい。

 この先の山椒の行方は、ロイヤルミルクティーということになるはずだが、作るのが面倒なので、まだ試していない。


 

 


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