Vol.1.C:人はなぜパチスロ動画を見るのか。~いそまると寺井一択~完結編
映画評論家の町山智浩は、人が映画を見るのは「フラストレーションの発散」のためだと断言している(1)。彼はラジオ番組(?)内で、視聴者から寄せられた、「時代背景などを考えず頭を空っぽにしてただフラストレーションを発散するために映画を見る」というナイーブな主張に対し、すべての映画は(本来)フラストレーションの発散のために作られ、見られているのだと述べ、問題は「フラストレーションが発散できるかどうか」という点だと続ける。町山は、良い映画とは「作り手が自分のフラストレーションを発散するために作った映画」であり、自分が本当に描きたい・作り出したいものを表現した娯楽・芸術こそが真に良い娯楽・芸術なのであって、そうではないもの、つまり、「金儲けのために作られた映画」では「本当の意味でのフラストレーションは発散できない」のだと痛烈に批判している。以下は町山の実際の発言である。
(1)https://youtu.be/4XfAh622_c0
『具体的に言っちゃうと、凄いスーパーヒーローが出てきて、悪い奴をやっつけるという映画を見て、フラストレーションを本当に発散できるんですか。私はできませんね。できますか?だってそんなスーパーヒーローはいないわけでしょ。で、そんなスーパーヒーローと自分は決定的に違うわけじゃないですか。で、倒される悪党ってのも実際にいる悪党じゃないでしょ。(そういう映画に出てくるのは)ものすごく悪い、世界の征服とかを目指しているような悪党でしょ。怪獣だったりね。宇宙人だったりね。そんなものいないじゃないですか。いもしない悪党をいもしない人間が倒してどうしてフラストレーションが発散できるのか、僕にはさっぱりわかりません。』
この批評はまさに痛快である。そして彼は、真にフラストレーションを発散してくれる映画とは、「本当にある現実の悪を、本当にいそうな人間が倒したり(それと)戦ったりする映画」だと断言するのだ。この動画全体を通して町山は、我々に「娯楽を楽しむ」理由と目的を与えてくれるわけだが、それによって私たちはなぜか安心した、どこか勇気づけられた心持になる。なぜ自分は映画を見るのか、小説を読むのか、ある娯楽を楽しむのかという点において、多くの人はどこかふわっとした感覚しかもっていないだろう。かつての私もそうだった。そんなときに、「小説なんて読んでも何の意味もない」といった種の、いわば実用性至上主義的言論に出会うと、言い返す言葉もなくどこか居たたまれない気分になったものである。そんな我々に、町山の批評は一つの大きな足場を与えてくれたのである。そのおかげで、我々はどこか確信にも似た勇気をもらえた気分になる。万人にお勧めしたい動画なので、ぜひ多くの方にご視聴いただきたい。
本題に戻ろう。お気づきだろうが、私も人が「パチスロ動画」を見る理由の根底には、この「フラストレーションの発散」が大きく影響しているのではないかと思っている。そうではないと「演者が出演している動画が最も人気を博している理由」が説明できない。実際、パチンコやスロットの画面だけを映すスタイルで人気を博している動画もあるし、人が映っているにしても、勝ち方や新台の紹介に重きを置いた動画・チャンネルは数多い。にもかかわらず、最も数値的に人気を博しているのはいわゆる演者が出演している動画であり、少なくともそのトップに君臨しているのがスロパチステーションである。そこには必ず根本の理由があるはずだ。それを私は「フラストレーションの発散」に見出している。端的にいうと、我々は「演者を媒介にしてフラストレーションの発散している」ということである。より強いフラストレーションの発散には、演者という仲介役が必要だという仮説である。
そんな馬鹿なという人もいるかもしれないが、そんなことはない。これはほぼ全ての娯楽、漫画や小説、映画、スポーツなどで実際に我々が身近に体験することではないか。我々は架空の登場人物たちや会ったこともないスポーツ選手・チームに仲間意識や帰属意識を覚えるし、ときには自己投影して一喜一憂する。感動する。自分のことのように喜んだり落胆したりする。大谷翔平のような日本人選手の活躍、あるいは同郷のスポーツ選手の活躍を見て、関係ないはずなのにどこか誇らしく感じるといった人もいるだろう。また、一口にフラストレーションやその発散といっても、その様態は多種多様だし、その発散方法もまた多岐にわたる。抱えているのはいらだちや怒りかもしれないし、虚無感や絶望感かもしれない。それを昇華する方法は笑いかもしれないし、感動の涙かもしれない。バッドエンドだってまた一つの昇華経路である。苦い経験や深く考えさせられることを通した気づきや成長が大きなフラストレーションの発散につながったという経験は決して稀ではないだろう。
こうしたことがパチスロ動画にだけ起こりえないなんて、いったい誰に断言できるだろうか。
そう考えると話は早い。演者は、漫画や映画にとっての登場人物たちがそうであるように、あるいはスポーツにおける競技者たちがそうであるように、視聴者が演者やチャンネルに対して帰属意識を感じ得る点において、自己投影や共感を経たフラストレーションの発散に通じ得る点において、必要不可欠な存在なのである。スロパチステーションが一時代を築き上げている、その中心にいそまるがいるのは、彼らがパチスロを通した「フラストレーションの発散」を最もうまく表現できているからである。
話をかなり戻すことになるが、私は先に「一話単位で見たときに、演者動画にそこまで大きな差はない」と述べた。それは漫画やスポーツに置き換えればわかりやすい。一話のみ、あるいは一試合だけを取り上げて見ても、その漫画や選手の良し悪しは判断できないだろうし、大きなフラストレーションの発散には無論つながらない。もちろん、プロのプレーなのだからすごいに決まっているし、スロットでいえばいわゆる「神回」と呼ばれるものは確かにそれだけ見ても面白いのだが、ライバル関係や因縁といった人間関係、歴史的背景、その試合や話までの経緯や伏線があるからこそ我々の感動やチャンネル・演者に対するロイヤリティはより大きくなるのであって、全体を俯瞰せず一部分を切り取っただけでは大した差が出ないのは当然である。演者側にしたって、継続的な人気やコアなファン層の獲得、そもそもこうした神回自体の爆発につながるだけのベースとなる知名度の獲得には、その間にある幾多もの普通の回(もしくはクソ回と呼ばれるもの)が重要であることは十分に承知しているだろうし、だからこそ「寺やるっ!」にしても「成り上がり回胴録」にしても話数とタイトルをうっているわけだ。したがって、演者や動画を批評するにあたっては、たとえそれがある特定の一話を対象にしたものだとしても、彼らの作品全体を俯瞰したうえでの批評でなければあまり意味をなさない。
そこで、全ての話を一連のストーリーとして俯瞰してみると、いそまる及びスロパチステーションの人気には納得せざるを得ない理由がある。一つとして、いそまるが「フラストレーションの発散」における達人であることは先に述べた。よしきはこの点において、初期は大変未熟だったが、今となってはいそまると肩を並べるか、もしかしたら彼を上回るレベルに達しているのだから末恐ろしい。彼についてはまたいつか個別に論じたいと思う。
本題に戻そう。そしてもう一つ、ここが重要である。彼らスロパチステーションは「フラストレーションを溜め込むこと」が非常にうまい。わかりやすくいうと、「ストーリー作り」が大変上手である。最近でいうと、5号機完全撤去に伴う「卒業式」系動画が各チャンネルで相次いだと思うが、これらを見比べると非常にわかりやすいだろう。いそまるでいうと「燃やすこと」を目標に幾度もクソ回を積み重ねた末の「トータルイクリプス」がまさにそれだし、やや消化不良には終わったが「煩悩BREAKER禅」もその一つだろう。時期はさかのぼるが、彼の「ハーデス」卒業式もまた彼史上に残る偉作である。スロット自体の内容を見ると別に大した展開ではないにもかかわらず非常に感動させられる動画に仕上がっているし、真っすぐに熱くなれるいそまるの良さがその感動を極限まで引き上げている。冷静に考えれば「GOD揃い」が2回とも「510ゲーム」だったという偶然にあそこまで熱くなるのは無理があるだろうに、あたかも本当に感動的な出来事のように思わせてしまうのだから(まぁ凄い偶然ではあるかもしれないが)大したものである。
よしきは内容・ヒキ自体がもはや神がかっていた「番長3」は当然として、「鬼哭啾啾」を追い続けた「バジリスク3」、卒業式と呼ぶにはやや早い時期の動画だが、「コードギアスR2」や「北斗の拳 修羅の国編」も、追い続けた目標にたどり着くという点で大変ストーリー性があった。これらすべてに共通しているのは、チャンネルを通して何度も何度も挑戦し続けたという事実、つまりは「フラストレーションの発散」という最終話につなるためのいわゆる「クソ回」や「飯ウマ回」、あるいは消化不良の回をしっかり伏線として築き続けていたということである。前述の「煩悩BREAKER」のように、必ずしも全てで狙い通り収拾できるわけではない。ただ、そこにつなげられるような長期的な展開や伏線をしっかり用意し続けているという点がまさに秀逸である。それどころか、6号機に完全移行した現時点ですでに6号機にもその種をまいているのだから用意周到である(2)。一話単位で見ても映画を意識したように見える編集が非常に多いし、例えばそれぞれのジャグラー回でここまでストーリーを作り上げてしまうのだから恐れ多い(3・4)。意識的にであれ無自覚であれ、おそらくスロパチステーション内部は本論の「フラストレーションの発散」という点、そのための「ストーリー作り」という点を間違いなく重視しているはずだ。
(2~4)
こうしてみると、スロパチステーションの人気の理由は明確である。ストーリー作りでフラストレーションをしっかりと溜め、その時が来たときの爆発的発散につなげる。かつ、いそまるを中心として「主人公感」が強い演者をそろえている。つまり、自然とストーリーが「王道」をいくのである。少年漫画的といってもいい。言ってしまえばストーリーが「万人受けする」のだ。だから、多少の「クソ回」は比較的そのままというか、クソ回として終わらせることを厭わない。無理に笑いや落ちにつなげようとしないという意味である。動画時間も全体的にやや長めである。これはおそらくYoutube動画のトレンドには逆行しているはずだが、彼らはストーリー作りにはそれなりの「前置き」が必要であることをおそらく自覚している。先に挙げたいそまるの鉄拳デビルの動画を見返してほしい。ジャグラーのシーンは全カットされていたっておかしくないのに、あえてそれなりの尺をとって使うことで、動画内のストーリー性を際立たせている。
その対極にいるのが寺井一択である。そもそも、ほかのチャンネルや演者は、あまりこの「ストーリー作り」が上手ではない。というか多分意識できていない。「フラストレーションの発散」という点は恐らくぼんやりとした形ではあっても意識していると思うが(「神回」や「万枚」を意識するようなセリフを口にするのはそのためだろう)、そのためのストーリー作りは怠っているとしか言いようがない。
私はセブンズTV、特にワロスを大変評価しており、それは彼の「フラストレーション」に対する反応や表現が大変生来的というか、いわばいそまる同様、「まっすぐにフラストレーションを表現し発散できる」点に由来するものであるが、彼らはストーリー作りを一切眼中に置いていない。率直にいうと、動画がダイジェスト的すぎる。
それを評価する人もいるだろうし、ああいう風にサクサクと進んでいくのが彼らのスタイルなのであれば別にそれを変える必要もないとは思うが(言い忘れていたが、スロパチステーションは確固たる人気があるからこそ長めの動画やオチのないクソ回を公開できるのだという仮説は十分に成り立つ。卵が先か鶏が先かという点で論証が難しい点ではあるが、誰にでもマネできることではないというのは確かだ)、あのままではおそらく「万人受け」のレベルに到達するのは難しいだろう。同じ絵面が続きがちで展開の波が穏やかな6号機では特に苦戦を強いられると思う。彼らは視聴者にロイヤリティを持たせる、あるいは刺激すること長けているので、コアなファン層を獲得することに成功しているが、このままでは動画が企画頼みになってしまう危険性は否めない。彼らについてはまたいつか述べたいと思う。
寺井一択に話を戻そう。彼(そしてScoop TV)もまた、ストーリー作りという視点に欠けている。ゆえに、せっかくの機会を「フラストレーションの発散」につなげきることができていない。「アテナフリーズ」を引いた聖闘士星矢の回は、残念ながら駄作である。あれもまた「ダイジェスト的動画」と言わざるを得ない。なぜあれをあそこまで短い動画に仕上げてしまったのか、なぜもっと「必要な無駄」を使うことでフラストレーションの爆発につなげることができなかったのか、私は大変不思議だった。それを評価する声もあるだろうことを私は理解しているが、視聴回数は内容にも彼の人気にも比例していない。「寺やるっ!」を全話通してみたときに、なんとなくその理由が分かった。
前述のとおり、彼はコメディアン的である。少なくとも私はそう思っている。ゆえに、彼の「フラストレーションの発散」は「笑い」という道を辿る。まずこの時点で、「感動」という少年漫画的王道をすすむいそまるやスロパチステーションにはどうしても太刀打ちできないだろうが、それはもう言っても仕方ないので、別ジャンルと考えるしかない。それにしたって、動画の視聴回数にしてもScoop TVのチャンネル登録者にしても、もっと伸びておかしくないだけの実力・知名度が彼にはある。
にもかかわらずそれが実現できていない理由。
寺井一択は、コメディアンすぎるのだ。
彼は「オチをつけずにはいられない」のである。
彼の動画は、アメリカのコメディドラマに大変近しい。コメディドラマはふつう一話30分に満たないが、寺井の動画も比較的簡潔にまとまっていることが多い。笑いにはスピード感や間が重要であることを心得ているからだろう。よって、スロパチステーションにとって重要な「ストーリー作りのための間」は彼には「笑いを滞らせる不要な間」になってしまう。そして最も致命的なのは、彼の動画は「フラストレーションをためることができない」ことである。なぜなら、必ず「オチ」をつけてしまうからだ。
彼の動画には、どうしようもないクソ回だからと言って最後に馬鹿馬鹿しいオチをつけて話の体裁を取り繕う回が多い。一つの話でも、あるいは一つの展開でも、彼は笑いでフラストレーションの発散を小出しに完了してしまう。言ってしまえば、「一話完結」なのである。これが、「おもしろい」という点を除くと「寺やるっ!」を見続けようという気がそこまで刺激されない最大の理由である。そう、確かに面白い。セクハラやパワハラを露骨に連想させる時代遅れのネタ(これは日本のお笑い・テレビ界全体に言えることなのだろうが)ははっきり言って早くやめたほうがいいとは思うが、これについては、彼は賢い人間なので、きちんと言語化して伝えればおそらくわかってくれるはずであり、またいつか述べたいと思う。話を戻そう。だが、それはコメディドラマよろしく、「見ない回があってもいい」面白さなのである。
実際、寺井はたびたび「収録の動画を没にしない」ことをこだわりの一つに挙げている。彼は一つの動画を、たとえどんな展開・内容だったとしても、どうにか面白くしようというこだわりを強く持っている。それが「一話完結」感をさらに強く生み出してしまう原因だろう。それ自体がスタイルとして悪いとは思わない。だが、私はもう少し柔軟になったほうが彼のさらなる人気につながる気がしてならない。言ってしまえば、彼の動画は「お笑いのバリエーション」は豊富だが、結局のところ「動画のバリエーション」はお笑い一辺倒なのである。緩急をつけるためにも、どこかで大きな好機が訪れた際に大きなフラストレーションの発散につなげられるような伏線づくり、ようは、一話でどうにか展開やオチを作ろうとするのではなく、より長期的なストーリーの一部として一つの動画をとらえる視点にもう少し寄ってもいいのではないか。そのために没回や複数の収録をまとめて一話にするようなことがあってもいいのではないか。
実際、ストーリーを作るだけの材料がなかったわけではないはずである。キングパルサーにしても絆にしてもサラ番にしても、笑い一辺倒によせるのではなく、スロパチステーションのような「ストーリー」を作るだけの因縁台は寺井にもたくさんあったし、初期から中期には思わず感動するような話がままあった。ハーデス万枚の回や遊太郎卒業回は(後者は狙ってできるものではないけれども)、寺井史上に残る傑作だったし、そこにはやはり「感動」があった。別に「感動」をやたらめったらに押したいわけではない点は主張させてもらいたい。そもそも「感動」のような大きなフラストレーションの発散につなげられるような回は、スロットやパチンコという不確実性の高い娯楽を相手にしているのだから、狙ってできるものではないし、毎回できるものでもない。だからこそ、その「一回」が来たとき(寺井にはなかなか来ないけれども)にその機会を逃さないというのが、そのための伏線・ストーリー作りを怠らないというのが、スロパチステーションが抜きんでている点であり、また寺井をはじめ多くの演者に欠けている視点なのである。
私はスロパチステーションの内部のことは一切知らないし、その人気を築くまでの商業的取り組みに関してはあまり知らない。もちろん、そうした側面もまた、彼らが「いまの彼らであること」に大きく寄与してきた一面なのだろうが、私はスロパチステーションの「動画」がなぜ人気なのかという点について演者が論じた考察を寡聞にして知らない。どちらかというと、前述のてつのような、「何が面白いんだ」という種の言論(たとえポーズにしても)のほうが見聞きすることが多かった。しかし、広く面白いと認知されているものにはそう思われるだけの理由があるはずである。何か原因があるはずである。それを今回、私なりに突き詰めて考えてみた。
第一線を走る人間は足を引っ張られるものである。批判の対象に挙げられがちなものである。しかし、それが批判であれ賞賛であれ、それを考察し論じてみるという営みを繰り返すことがこの業界のさらなる発展に寄与するのではないかという、私がはじめに述べた意見に揺るぎはない。そのとっかかりのケースとして、現在最も人気の高いスロパチステーションといそまる、そして寺井一択を対象に選んだというそれだけの話である。心無い罵詈雑言や中身のない論理をぶつけ合いがちなこの界隈において、感覚を言語化して冷静に論じるという営みが少しでも習慣化してくれれば幸いだし、そのために今後も微力ながら活動を続けていければと考えている。
~終~
・追伸
今回は私のパチスロ動画批評の第一作ということで、全体的にやや抽象的な表現、ならびに根拠や説得力に欠けた仮説に終始していることは重々承知している。しかしながら、本論は私のパチスロ批評家としての立場を明確にすることを第一義に置いたものであり、これは今後の批評展開においても、あるいは読者が私の批評を解釈し(かつ批評する)うえでも、私の批評の中心となる重要な論点であるので、そのまま発表することにした。何卒ご理解いただきたい。また、批評を展開していくうえで、はじめのうちはどうしてもスロパチステーションや寺井一択など、現在最も人気があるとされている演者などに関する批評が中心になってしまうことを断っておきたい。
最後に、私は私が書きたいことを書く。誰にどう思われるか、何を言われるかということに関しては一切興味がない。ただひっそりと書き続け、強いて言えば誰かの目に留まり、同じ営みを共有できる同志が増えればうれしいなという程度である。
そんなことをする理由?
今さら言うまでもないだろう。
「フラストレーションの発散」のためである。
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