メディアによって表現は変わる
どうも、一人称です。
最近さまざまなメディアがありますね。
noteもその1つとして、たくさんの方の支持を得ていると思います。
今回はそんなメディアについて書いていきたいと思います。
至極当たり前なのですが、メディアが変わると発信手段が変わります。
例えば、
ドラマなら映像と音声。
雑誌なら文章と写真。
小説なら文字。
ではnoteは?
僕はnoteはとても大きなメディアであり、たくさんある表現方法を包括したものだと思っています。
こんな風に、一口にメディアと言っても限りなく種類があります。
そして、そのメディアには独自の表現方法が存在します。
メディアミックスが起き、
漫画しかなかったものがドラマ化されるのは、
そのメディアの独自の表現方法を借りて、
元ネタの魅力を深掘りするために起きるのです。
ですが、おかしいなと思うことがあります。
そうやってメディアミックスは行われるはずなのに、なぜか陳腐な作品になってしまい、魅力を深掘りできていない作品を度々見かけるのです。
もちろん、魅力を引き出すのは簡単なことではないので、引き出しきれずに陳腐になってしまっている場合もあります。
また、十分表現していたとしても、僕らの感受性が足りないために陳腐のレッテルが貼られているものもあります。
でも、それにしては陳腐なメディアミックス多すぎると思います。
面白くて手段を変えて魅力を引き出すためにメディアミックス。
これが本来の形だと思います。
しかし、現在は人気作だから、売れるからとかそう言った理由でメディアミックスをする場合が多いです。
たしかに、明日生きるためにはお金は必要ですよね。
でもそのためにメディアで魅力を深掘りできるか否かを考えず、制作するというのは違うと思うんです。
そもそも、小説もマンガもアニメもドラマも映画も全て嗜好品です。
嗜好品とは生きていく上で最低限必要なものから外れたものです。
なのになぜ嗜好品に手を伸ばすかといえば、それに魅力があるからです。
そこで考えていただきたいのが、お金お金、という心が見え見えのものに魅力を感じるのかというところです。
感じませんよね。
視聴者は制作側の「とりあえず作りました」なものに何一つ魅力を感じてくれません。
むしろ、「面白い作品で魅力してくれ!」
と思ってます。
ここまでずっとメディアミックスについて触れてきましたが、忘れてはいけないのはメディアごとに表現に向いている作品とそうでない作品があるということです。
メディアミックスをして、魅力が表現しきれていない理由にはこれもあると思います。
作品にあった表現方法を選びましょう。
もし小説を書くのが得意ならば、色々と比較した上でその作品が小説以上に合うものがない、というところまで研ぎ澄ませてから書くのがおススメです。
何事も準備。
作品を発信することもまた、準備にかかってます。
そのために、メディア選びをもう一度考え直してほしい、という記事でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます。