良い子の「生詩なまうた」第64話 悪さをしない子は、悪人になります

https://youtu.be/DLTyHjhX81s

「悪さをしない子は、悪人になります」 廣井亮一 著を読んでいます。

「甘え」というキーワードには、何か現代社会の問題解決の秘密が隠れているとは
前から感じていたのですが、今回それを紐解いていく中で、なぜ「いい子、いい人」が
生き辛いのか、「いじめ」はなぜ弱者へ向かって行って、隠ぺいされるのかが理解できた気がします。
と同時にこの令和の日本という国の構造も見えてきた気がします。

母親に対する暴力や命令はかまってほしいという甘え「赤ちゃんがえり」である。
「甘え」とは、「乳児が自分と母親とが別の存在であることを体験したことにより
一層相手との一体感を求めようとする感情表現である」
しかしながら「甘えられない乳児の憤怒は単なる攻撃性の表れではなく依存欲求の不満による
反応行動である」

その感覚は、大人になってもしかして「寂しい」という感情になり、だからこそ他者に関わっていくことに
なると思うのだが、そのかかわり方があまりにも画一的なというか原理主義的というか
徒弟制度、家父長制度丸出しの「堅苦しい躾」や「昭和の手あかのついた共同体思考」のまま
を受け入れられないとしたら、それはこの令和においては生き辛いものとなるでしょう。
また、感情をシンプルにストレートに感じられない場合(=自己内対話でメタ認知できない)場合
ゆがんだ感覚として自己内抑制が働き
寂しい→抑圧→我慢→泣きたいけど泣けない→言いたいけど言えない→そのままの自分を否定
→強がる→怒る→暴言、暴力へ発展。しかもそれは、身近な「弱者」へ噴出する。
キーワードは「創造的破壊」「ごちゃまぜのゆる関係」と「自愛と共認」

「甘え」は他者に依存し、他者が自分に与えてくれることを受動的に期待するもので、
「攻撃」は相手に自己の欲求を強く認識させるが、相手との溝を深めるものである。
攻撃性(反抗)と依存性(甘え)の関係は、思春期においては自立と依存という発達
課題を伴って第二反抗期に親や教師に対する激しい反抗として依存性が示されます。

乳児のほほ笑みなどの陽性感情だけでなく、怒りなどの陰性感情にも養育者が適切に関わるという
ことは、乳児にとってネガティブな面も含めた自己の全存在が養育者との関係において受け入れられる
ことを意味します。

児童虐待の親の中には、マニュアル通りに養育しなければならないという気持ちが強すぎて
完璧さを求めるあまり、子供のネガティブな面を封じ込めようとして虐待に及んでしまうものがいます。

親が、子供の反抗や反発を単に抑え込んだり無視することは子供の自立性や自発性の芽を
潰してしまうだけでなく、攻撃性そのものを大きくゆがませてしまうことになりかねません。

躾とは、個性と社会性を統合させるプロセス。
個性と社会性は一見相反する属性にとらえられやすいが、そうではない。
個性とは他者との関係性において成り立つものだから、そこには社会が成り立っていることが前提
同様に、社会性とは異なる個性を持った多様な人々と共存することですから、自己と他者の個性の
表現を受容できることが必須。両者は同時に生起するもので、アドラーはそれを「共同体感覚」と称しています。

※これって、「集合的無意識」かも

子供の欲求をそのままに放任するのではなく、その反発や反抗を受け止めて関わるのと同時に、その社会の一員として
ふさわしくない行為をしたときは、なぜ許されないのか?を諭しながら注意をしたり叱ったりすることによって
その攻撃性の発動を制御することも必要になります。

その際に、留意しなければならないことは、子供の主張を全く無視し暴力などの手段で、強制的に服従させてはならない

※甘やかすと甘えさせる、この解釈については、前回の動画の私の解釈とはちょっと違っていました。
子供のやりたいままにさせておくことが「甘やかす」で、子供の「悪」にきちんと関わることが子供の「甘えを受容する」こと

※そんなことできる親がいますか?実際は、親になって反抗期を迎えて、なんでかなって?気が付く。
反抗期は反抗によって、養育者からの距離を適切に取る、健全な行為。自我が目覚めて、親との適切な境界線ができて母子分離する
いい子は、母子癒着したまま反抗期ないから自我の発達が伴わず、主張が外界に向ってできない。
よってくそ真面目に外的ルール通りに動こうとする。ゆえに無理が生じ内と外の整合性が取れなくなり生きずらくなる。
結果、引きこもりや不登校で「学校という外部を遮断」することで自分を維持しようとする。命がけの行為。

子供は、遊びや「悪さ」体験を通じて、どのような失敗を招き、非難を浴びるのか?など
社会的に、受容される攻撃性(=甘え)の程度を学び自己修正して去勢される。

思春期の反抗期には、その攻撃性(=甘え)を、家族から自立するためのプロセスにおいて
親に向けたり、権力、権威者に向けたりします。
このような表現になるのは、「自立」と「依存」が拮抗しているからです。

非行を罰するだけで対処しようとすると、強制的に抑圧された歪んだ攻撃性(=甘えや依存性)を
受け止めるだけの「人と人とのかかわり」の構造が成立しない。
つまり、厳罰化はその少年の周りにもはや「大人が存在しない」ことの表れである。
もっとはっきり言うと、その子の周りにいる親や教師自身が「大人になり切れていない」ことの表れである。

1983年を転換期にして、教師に対する暴力が減少しだしたのと対照的に「いじめ」が問題視されてきた。
それは、反抗の表出の仕方に変化が出てきたということだ。
具体的には、権力者や権威者という「強者」へ向かう「攻撃性」の方向が、管理強化による抑圧で
「弱者」へ向かうベクトルに変質したということだ。

また、少子高齢化、離婚率の増加などにより児童虐待が急激に増え家族という社会の小単位の機能不全が
もたらすと思われる事件が多発する。ストーカー問題やDV事件など、社会のゆがみから子供を守る
緩衝地帯となる家族の機能が低下した結果、子供は社会と家族のゆがみをダイレクトに被ることになった。

反抗するのは、甘えたいから、愛されたいから。
でも、現実はその受け皿となる家族や周りの人間関係が崩壊している。

共同体社会(=助け合い、甘えあい)という戦後モデルが崩壊し、反抗は「悪」として力で抑える「管理社会」
へ移行し、その甘えのエネルギー(=攻撃性)は、弱者へ向かい、隠ぺいされる。
周りの大人らしき顔をした人々も「個人では自分が非力であることを自覚」しているため、責任回避、自己保身
に終始せざるを得ず、弱者は救済されず、「いじめ」は無いことにされ、事実は隠ぺいされる。
いじめられ、命を奪われたものは浮かばれない。報われない、救われない。いつまでたってもいじめ「隠ぺい問題」解決しない。
いじめ問題は「子供の側のいじめの問題」じゃなく、いじめの「大人側の隠ぺいの問題」である。

だから、一人ひとりが今ここ自分に目覚めて「自分を大事に生きる、愛して生きる」ことを始めなければ
もう、親、教師、学校、教育委員会、会社、行政、国・・・。どこにも大人の顔した子供しかいない
ということを理解して、ライフスタイルをシフトしなければこの先生きていけない。
親も学校も国も「もうできません!」ってはっきり本当のこと言うしかない。しかし、それは責任を伴う。
したがって個人は、私も含め各々非力であるから、責任回避、保身で、見て見ぬふりが精いっぱいではないだろうか?

パートナーや家族、近しい周りの他人や学校や会社や国にまともなオペレーション求めるのは諦める、期待しない、
自分の人生を活かすも殺すも、自分しかできないという当たり前のことに気が付くしかない。

共同体社会が崩壊した今、唯一、希望があるのは実は心理的距離感のある「赤の他人」かもしれないな。
家族は、近すぎて絡みつきすぎ、しがみつきすぎるから。頭の中の思考の枠組みが「昭和のまま」が多いから。
令和の時代に、アップデートされてないから。

「自分は、自分しか救えません。」3回唱えましょう。笑。
ご自愛寺の生詩師。私にはこれしかできません。いや、これができます。

まずは、一人ひとりが心豊かに、自分を愛することから、始めるしかないって感じています。
今までの常識を超越すること、思考の枠組みを広げること、タブーと思っていたことを
違う角度や違う解釈で見直してみること、結局どうしたい?を自分自身に問うて、その自分を
自然体で受け入れ、素直にシンプルに生きる。

本日また、直感がさえていた。

朝から、タロット協会さんの講座の動画見ていたら「メタ認知力」「相手をコントロール」しようとしている自分に気が付いた。
それと、下記書籍に出会い、まさに今考えていることの答えの先駆者のようなお考えに触れた。
本当に、潜在意識半端ない、どんどん引き寄せ発動しながら、人生のゴールを明確にしていきたいな。

「私ならできる!」そんな感覚どんどん充満している。
本日であった書籍。
「自分をたいせつにする本」 服部みれい 著

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?