自分を生きる!良い子の「生詩なまうた」第62話

https://youtu.be/pXMBARs6GG8

日本人の精神的支柱となっている儒教の影響の大きい「修身」とは、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E8%BA%AB

以下上記URLより抜粋

日本は明治維新によって近代国家としての歩みを始めるが、明治政府は教育に関して当初から困難を抱えていた。
それは教育の中心を国学、漢学(儒学)、そして洋学のどれに据えるのかという問題である。
政府は王政復古の理念に従って国学を中心にすることを考えるが、これには漢学派が反対して折り合いがつかず、
結局、各学派の主導権争いの末「実学性」に富んだ洋学を主体とすることになった。
そして、このような考えの下、1871年(明治4年)に文部省が設置され、翌年には『学制』が制定された。
なお、この学制の起草委員はそのほとんどが洋学者であった。

※最初は西洋に追いつけ、追い越せが目標だった。

学制の中、道徳教育は「修身科」が担うことになっており、以後、1945年までこれが続いた。
こうして始まった学制と修身科は一定の啓蒙的役割を果たしたが以下のようにいくつかの問題を抱えていた。
教育費の受益者負担、強制就学による労働力の喪失、実生活を無視した教育
さらに、士族の反乱や自由民権運動により政治的緊張が高まっており、これに相まって、明治政府の欧米化政策に対して強い反発が現れるようになった。
このような中で、もともと、「欧米化」により日本人としての精神が失われることに強い危機感を持っていた儒学者からは
「教育の精神的よりどころを従来の儒学的思想に置くべきだ」との意見が噴出した。

※えっ?儒学ってもともと中国やないの?

維新以来の欧米化政策に対する憂慮と、それによる古来からの儒教主義的道徳観にもとづく教育の確立という「時代の要望」であったため
天皇による聖旨という形で儒学者が「教学聖旨」という文書を起草。この文書は天皇の名を使ったものであっただけに影響は大きく
これ以降、日本の教育政策は知育重視から徳育重視の方針に転換することになる。

※ちょっと待って、これ今でもやってるよね。知育から徳育へとか言って。愛国教育とか言って。
その徳の本質は儒教的思想って、ずっこけるよね。民衆を扇動するためにお上の都合優先ってことでしょ。

この文書の具体的内容は、自由民権運動などの問題(風俗の乱れ)は維新以来の「教育が知育主義に走り道徳教育をないがしろにした」ことが原因と批判し
「仁義忠孝」を中心とした伝統的な儒教的な道徳教育を中心に教育を進めるべきであると主張するものであった。
これはつまり、「列強を恐れすぎて近代化を急ぎすぎたので、これを修正しよう」というものであったが、同時に特定の道徳観念を強制するものでもあった。

つまり、欧米をまねた近代化は風俗が乱れているから、先ほど(生詩なまうた第61話)の孔子の儒教的な「仁義忠孝」という考えを道徳観念として強制されたということ。
ということは、性=西洋=悪(鬼畜米英)に対しては当時の日本より欧米の方がオープンだったということ。

ただし、この教学聖旨に対しては開明派官僚の反対が相次いだ。例えば、伊藤博文は『教育議』(1879)の中で「風俗の乱れは欧米化によるものではなく、
急激な社会構造の変化によるもの」であるとし、「科学的な知識教育こそがそのような問題を失くしていく方法だ」と主張した。
これに対して、また、先の『教学聖旨』を起草した元田は『教育議附議』を提出し反論するがその意見は認められず、
同年従来の学制を廃止し『教育令』が公布された。
その主な内容は「就学義務の緩和」や「学務委員の選挙による選出」など自由・放任主義を原則とするものであったが、
道徳教育に関しては特に重視されたりすることなく従来と変わらない扱いであった。

※結局今と同じ、欧米と中国の間でさまよう日本の姿が見え隠れする。国内の欧米派と中国派の代理戦争やってるだけ。

ところが、教学聖旨などの儒教主義への回帰主義に逆らうことはできず、翌年1880年(明治13年)に教育令は「改正教育令」としてその内容をガラリと変えることになる。
この改正教育令の特徴は教科の順番で修身が一番先頭に来ていることであり、以後、太平洋戦争が始まるまで学校教育においては「修身」が筆頭となることとなった
具体的には、小学校における修身科の授業時間数が学制の時に比べて12倍に増え、小学校を初等・中等・高等の3科に区分し、歴史は日本歴史のみとし、
同年にこの改正教育令に基づいて作られた『小学校教員心得』では教師は児童・生徒に知識を教え込むのではなく道徳性を持たせるべきであるとされた。

さらに、その修身科の内容も儒教色の濃いものとなった 。例えば、新しい教科書を儒学者によって作らせた。
教科書に関わる儒学者の影響はさらに増し「儒教が日本固有の道徳倫理に密接に関係している」「欧米の倫理学は日本の風土に合わない」
といったことが書かれており、これに基づいた教科書からは西洋の格言などが姿を消した。
このような「道徳教育重視」の流れによって、この時代の学校教育は干渉主義・統制主義の強いものになった。前述のような教科書の統制だけではなく、
1881年(明治14年)には「教師の反体制的言動・思想」が規制の対象となったり、修身科以外の教科に対しても内容干渉が行われたりするようになり、
各教科の自立性が失われる結果となった。


しかし、このような流れが素直に受け入れられたわけではなかった。早くは、先に述べたように伊藤博文や福沢諭吉も論文を発表して、
「道徳教育は国民の自主的な議論に基づいたものであるべきだ」と反論「儒教主義的教育の根源となっている信仰や服従の精神」を批判した。
また、西村茂樹も儒教は『やってはいけないこと』ばかりを教えており、自主性が育たない」と指摘した。
初代文部大臣であった森有礼もまた、道徳教育に「自発性」を求め、忠孝道徳の暗記を強要する儒教主義には限界があると主張した。

※ここでいう道徳性の本質はなにか?「欲しがりません、勝つまでは」という私たちの親世代(80歳-100歳台)につながる価値観が植えつけられることにつながる
詳しくは、「性欲の文化史」井上章一 著 をご覧ください。
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ポイントは以下の通りです。
日本人の思考の根底にあるのは、儒教による徳育の観念。それは、戦時体制の軍部の思惑と一致し、欧米=風俗のみだれ。だから、徳育教育を強化することにより
仁義忠孝を国民に強制せねば富国強兵の国つくりはできないという国策があった。
それにより、日本男児の在り方は「男らしく戦う」的な、上位下達の体育会的なノリになり、その悪しき「外的に創られた社会規範」を軍国教育の強制により内面に取り込み
自ら魂の内的抑圧により、「欲しがりません!勝つまでは!」の実践へと国民を駆り立てていったのである。
儒教の思想=優越者の立場からの威圧的統制の治世・管理論、男性優位主導論→富国強兵のために、欧米の風紀の乱れを律するために教育勅語、修身科で教育
魂に内在化され、刻印された「性を悪として印象付け、タブー視」していった。
皆さんの中に、「セックスについて語る」ことは、なにか悪い事してるような感覚無いですか?あるとしたら、たぶん上記のような日本の歴史の中にその原因があるのではないですか?
体制側の世界観や視点じゃなくて、その人個人としての世界観に基づく、ライフスタイルがもしかしたら必要なのではないですか?
世間体の刷り込みから出る、常識や思い込みから出る「越境思考」、そして今までにない新しい世界観の創造。概念の創造、必要じゃないですか?生き辛さから脱出するために。
教育による、性ににする、恐怖感や罪悪感の内在化。これによって、自然な魂の欲動は素直に外部へ伝達せず、洗脳的に作られた教育や知識注入により、内的抑圧を強め
最終的に、魂と外側のインターフェイスを分離する。これが、本音と建て前、役割や立場と自分、内と外に二分される日本人の心の内情。
それを、上手く分かったうえで、「方便」や「社交辞令」「お世辞」でしなやかにかわせればいいのだが、発達障害や愛着、HSPの面々などいわゆる「真面目な性格」の持ち主は
言葉をそのままに真に受けてやろうとするから、生きずらい。実際できないことまでマジでよろうとする。

ということで、次回は「まじめな親」の子どもが危ない!三好 邦雄 著にスポットを当て、生き辛さの正体を探っていこうと思う。
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