解放のあとで 十一通目 α

2020年9月1日

松原礼二さんへ

 この誰誰へというのもいい加減滅茶苦茶で統一性がありませんね。本当か。古谷です。本当は8月30日投稿のはずでした。しかし日付に沿った投稿を忘れていた。杜撰なものです。平謝りする外ない。Yoshiokaさん幸村燕さん書簡のほう受け取りました。改めてまとめて読ませていただきました。おふたりとも近況ということを聞かれている。なので近況について書こうと思います。
 最近といっても先月の後半ですが、はもっぱら東雅夫編集の『平成怪奇小説傑作集3』を読んでいてつい先日26日に読み終わりました。一日二作品を目安に読んでいくとなかなかスルスル進む。
 京極夏彦『成人』は非直接的な怪異の描き方が佳く、オチにとことん気分を悪くするものがある。
 小野不由美「雨の鈴」は家とそれが建つ土地・袋小路にまつわる抑制的な怪異譚で静かに不吉である。
 藤野可織『アイデンティティ』は猿と鮭で造られた実在の“人魚のミイラ”と、その職人と購入者、とその子孫とをめぐる抱腹絶倒の“自己像劇場”である。
 『アサッテの人』諏訪哲史の文体の冒険『修那羅』や、『来る』澤村伊智による神隠しにまつわる虚実さだかならぬ陳述『鬼のうみたりければ』も収録。
 宇佐美まことの『みどりの吐息』は一昔前(というか前世紀)に流行った“サンカ”など“山の民”を題材にした小説ですが、木がみどり色の息を吐くという着想とその描写には、材の選び方もあって何かアイルランド的な風を感じる。しかしこの感覚については“適当コイて”いるか。
 色々めぐってきましたが自分が好きな小説のジャンルは怪異を描いた小説であるように思います。ふしぎなことが起こる、ふしぎなことを描く、描かれたふしぎなもの――ひいてはそのふしぎな描き方、と言えればよりよい――をいっとう愛好している。
 正直な話自分が小説を愛好するのは現実からの脱出を求めてのことで、これは昔から変わっていないように思います。現実における社会的繋縛の重みは逆らいがたく、どこにも逃避場所を用意することが出来そうにない。然るに紙の上においては如何。国境のトンネルを抜け、衣装箪笥を通り、白銀色の雪国へ出る。魔法使いの闊歩する20世紀末期のブリテン島をめぐる。動物の言葉を介する獣医のアフリカ旅行・月旅行を知る。巨大な蛾に乗り向かった月世界での巨人との出会いを知る。荒廃した朱雀大路羅生門での会話を聞くことが出来る。本の上でなら、わたしは現実の繋縛を離れて、わたしが居合わせえなかった時と場所に向かうことが出来る。軽やかにいつどこへでも飛ぶ、めくるめく旅です。
(ところでこうした遊離はそれ自体テクスト的現実の力を証し立ててもいる。人間は、所謂現実を源泉としてそれを参照し書き写したものというテキストの一般的理解を離れて、所謂現実とは一切関係のない紙の上の現実を造り出すことが出来る。それをわれわれは、桃から生まれた日本一の桃太郎、椀と箸の舟にのり都にのぼる一寸法師といったふしぎな物語から、よくよく知っているはずである。いくら昔々と言ったところで小人や桃に入った赤子という観念は――少なくとも合理主義的理性にとっては――肯定しかねる)

 一種の脱自主義extatisme、自己自身からの脱出および超越的な自己なるものの破壊――それは20世紀の後半を通じてとりわけフランス(および輸入の形でその影響を大きく受けた日本)における「哲学」が自らに課した課題、使命だったと言えるでしょう。少なくとも「哲学」の一部について言えば妥当ではないか。これはヘーゲルが示した「絶対精神」すなわち生成消滅する事物の世界を離れて確固として存在し理論上は完全な認識に到達しうる観念的超越論的主体、を人間が有している、という観念を破壊することであり、同時に「ヒトラー主義哲学」が、ナチのイデオローグが、ひいては19世紀来の汎西ヨーロッパ~北アメリカ的思潮が導入した、物理的所与によって規定された諸人種およびその優劣に基づくヒエラルキー、という観念に反対する理路を打ち出そうというものでした。
 ナチズムの哲学的規定は20世紀のヨーロッパの思想家にとって非常に大きな課題でしたが、1934年という早くに簡略的でこそあれそれを行ったのがエマニュエル・レヴィナスの「ヒトラー主義哲学に関する若干の考察」です。決して長くはないこの論考の中で、エマニュエル・レヴィナスは、器質的側面から人間の全存在をあらかじめ決定しようとする諸思潮―――なかでも政治的最大勢力であるナチズム、「ヒトラー主義哲学」――を、古代以来ヨーロッパに存在した心身二元論的な思潮と対置させて論じています。
 古代に発生し、中世以降の西欧キリスト教社会において存続した心身二元論を、レヴィナスはまず「一切の固着に対する無限の自由」の語で表現します。霊魂・精神は生成消滅する世界の諸事物の領域からは何らか隔たって存在しているという仮定がそこにあります。この隔たりのために人間は肉体や世界の種々の事情と無関係に・自由に考えることができるとされるのです。
 この自由を可能にする何らかの隔たりは近代にも是認され続け、理性的人間の自由の根拠となりました。唯物論の代名詞であるマルクス主義においてもこうした区別と精神の自由は完全に廃棄されたわけではない。人間精神は社会的諸状況に決定付けられながらも、諸状況を変革しうる自由なものとして存在し続けます。より厳密な唯物論者は多くいましたが、彼らの場合は精神を無視した上で肉体を物質の一部にまで還元するため、物質の中でも特に肉体が持っていた――そして今でも「かわいい」我が身が持っている――性質が、そこにおいては、失われてしまう――――
 こうした事情が変わるのは、19世紀を通じて自然科学的な人間規定が進展し、遺伝形質やその継承の観念が一般化したことが大きい。国民意識の高揚ということもあったかもしれない。ナショナルな血のつながりを通じて、然々の血を受けつぐ何々人は斯々の気質だとか言われてくる。親譲りの無鉄砲で発奮して二階から飛び降りたりする。しかしこの「親譲りの」という言葉は案外以下の論述で重要だ。精神なるものと身体が分かちがたい一体のものとなり、精神は身体から隔たって存在することが出来ないという理解が広まる。これをつきつめたところに、すなわち「ヒトラー主義哲学」において、身体の精神に対する地位の逆転が起こる。
 存在する精神が肉体によって宿命的に繋縛され、むしろ肉体に支配されているというテーゼ。それこそが「ヒトラー主義哲学」――そしておそらく、肉体的諸要素に人間を還元する思潮一般――の核心であるとレヴィナスは書きます。「ヒトラー主義哲学」においては、人間は「血統」や「遺伝」の運搬車であり、精神と肉体は一つであって、そして精神の自由は廃棄され、肉体に従属させられる。
 精神を物理的に繋縛する肉体が、観念においても精神を繋縛・支配するという事態がここで起きます。そして第三帝国のイデオロギーによれば、「アーリア人」を頂点とした人種論的ヒエラルキーが存在し、諸民族の主人であるアーリア人と従属する諸族、そして廃棄さるべき種族である「ユダヤ人」の世界秩序が存在する。この秩序はめいめいの肉体をその階層制の根拠として要求するわけですが、そこに精神が関与しうる余地はありません。ともかくも肉体が過去を背負っており、その過去が問題にされているのですね。人間は、現在の行為ではなく、過去から引き継いできた人種的(アーリア人/アジア人/ユダヤ人)・的(男/女)規定に基づいて評価・階層化されることになる。この規定の源泉がめいめいの肉体である。
 見ての通り、そこにはついぞ人間の自由はありません。「心はアーリア人」と言うことは出来ない。世界における人間の位置はもっぱら生まれ持った肉体のみによって決定され、どのような位置であれそこから動くことは決して出来ない。ユダヤ人は最終的にアーリア人の世界秩序から追放されるでしょうし、男あるいは女でない性的カテゴリに属する人間はもろともに存在を否定されるでしょう。じっさい多くの所謂ホモセクシャルの人間がガス室に押し込められました。
 ようやっと、一方へと過剰に与え他方から過剰に奪う体制にたどりつきました。そうです、人間の不平等を残置する秩序です。第二次大戦後のフランス思想が戦ったものとは、つまるところこれであった――人間の自由を規制するものの根拠である自己、というこの厄介なもの、から逃れ去る可能性、を思考することが、生き残った者の使命だと感じられた。1934年に書かれた「ヒトラー主義哲学~」はそこまで議論を進めるわけではない、しかし彼を含めた多くの思想家が二度目の大戦を語るとき、そこにはどうしても自己なるものの悪性の影がつきまとっている。レヴィナスの「存在の悪」とは一つにはこうした文脈で言われることである。

 一連の脱自主義――それは存在者ならざる存在の声を聴くことであったり、差異を伴う反復をあらゆる存在者の原理として想定することであったり、源泉なるものが非源泉によって規定されていると示すことであったりしたわけです――の中にエマニュエル・レヴィナスの60年代以降の思想も数え上げられる。しかしこうした戦後の脱自主義では人間はともすれば唯物論的な理解の内に置かれ、記号の交渉の中の一変項となり、今なお近代的な法体制や日常的に言われる責任論という現存する諸制度との齟齬は否めない。60年代以降のレヴィナスの語り口は、彼じしんの実践的倫理への傾倒から発して、日常的人間の果たすべき責任とその善性を活写してはいる。
「そんな責任論は誤りである」と言えば楽です。しかし人間以外が被告となる動物裁判というものもあった(流石にここで「被告」とは言えない)。自由意志ある人間という近代法における地位だっていいかげんいかがわしい。古代以来の呪術的思考は、形を変えて影のように人間に付き従ってくるのではないか。そしてこれが生き残り続けるとしたら、それといかに付き合うかということも、人間にとって重要な関心事ではないのか。責任Schuldとその基体がいつの時代も求められるのだとすれば、その一般的構造の理念について思いを巡らすことは無為ではない。

 もう8月も終わって9月に入ります、入りました。前衛アンソロジー第二弾……9月末から10月中旬を〆切と予定しての編集……の〆切が近づいてきましたね。前衛ですってよ皆さん。移人称の技法を用いた小説の書き手として例えば保坂和志や柴崎友香といった近年の日本の小説家が挙がりますが、音楽の分野では既に広く受け入れられた技法であるらしい。新樋口恭介が20日ごろにツイートしていたのを覚えている。とりわけヨーロッパにおいて小説が新興分野であることもあってか、比較参照される芸術の分野として例えば音楽というものが出てくる。身体性、音楽性、等々と言われる。小説でさもあたらしげに用いられる技法が分野を飛び越えるとありふれたものであったりする。
 文体の彫琢という古典的な卓越性が優れた小説の要件としてありうることは確かでしょう。鬼籍に入った古井由吉もたとえばそうした文体の彫琢者のひとりでありました。しかし他方において言葉の質料性、身体性、音楽性といった、いわば言葉の血肉へのたゆまぬこだわりのみならず、観念の戯れをもう少し擁護してもいいのではないか。異常論文とか。――と思われるのは、自分が「後近代」の「文体」(問題機制はなるほど理解できるのです、しかしあの文体に分け入る力はない)についになじむことができず、ハイデガーやレヴィナスといったいっそ古代的な思想家のものばかり読んできたからなのかわかりません。一連の語り口がついに頭に馴染まないということはある。本当か? これだって本当かわかったものじゃない。
 次があれば世紀末以来の反アイデンティティの論調と新進気鋭の哲学者カンタン・メイヤスーやグレアム・ハーマンについて書けるといいのですが、流石に長くなってきたのでここで筆をおかせていただきます。松原さん次回はよろしくお願いします。

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