ユートピアについて その25

 ディストピアフィクションに見られる世界観は、それらが理念的なモデル、各階級の利害を表現している理念的モデルであるかぎりで真実である。ディストピアフィクションの作者は、人類にとって最悪と想像される状況の理念的モデルを提供する。それらのモデルは可能的であるか、あるいはすでに現実であるかもしれない。ディストピアフィクションの作者は、それぞれの世界観、現に存在する悪、現状を改善するための理想を提示する。かれらの主人公は悪しき事柄を経験し、最後には現状を改善するための観念を得る。読者は主人公の体験する痛み、獲得する理想を共有する……作者の望みどおりに。何らかの意味で善であるような或理念が示され、読者と主人公とは同じ理想を共有していない人々に対して自らを優れていると感じる。この「多数派より優れている」という感覚は陰謀論にコミットしている人々にも見られるものである。
 ディストピアの知覚と反抗は快い経験である。主人公は「隠された真実」を発見して読者にこれを示す、この「隠された真実を知っている」という感覚は必ずや読者に誇りを与える。この誇りの感情が有毒なものたりえないとどうして断言できるだろうか? 少なくとも、酉島伝法が指摘するように、ディストピアフィクションの主人公の心性は、陰謀論に参画する者のそれと区別しがたい。

>補足すると、『るん(笑)』がいまの状況を描いているように見えるのだとしたら、この国で連綿と続いてきたスピリチュアル、疑似科学信仰、知識に対する忌避感みたいなものの流れを全面的に展開したから。
>ふとしたきっかけで誰も知らない真実を知って不正と戦う、というのはエンターテイメントの王道的な物語構造で、実は陰謀論とも親和性が高い。真実を知っている優越感と、それを広く伝えるという正義感の両方が満たされる。
>それもあって『るん(笑)』では誰も謎を追わないアプローチをとった。そういう世界を内側から当たり前に描くことで、なにか見えてくるものがあるのではないか、とも考えていた。という感じです。

@dempow, 2021年7月12日

 真実を知る、真理を知る、という感覚と、そこからくる蒙昧な多数に対する優越感、「不正」「巨悪」への敵視という心理のはたらきは、時として陰謀論者のそれと限りなく接近する。「真実を知っている優越感と、それを広く伝えるという正義感の両方が満たされる」ためである。この事実への反省的アプローチとして酉島は『るん(笑)』において「誰も謎を追わないアプローチ」、「そういう世界を内側から当たり前に描く」という手法を採用している。
 この手法はどのような効用を持つか。ディストピアフィクションは、作者の想像する最も望ましくない世界を、その内側に住まう人物の視点から叙述するものである。「内側から」描くというアプローチ自体は、ディストピアフィクション全体に共通するもので、まあたらしいわけではない。酉島の手法の核心は、「ディストピア」を「当たり前」のものとして描くという点にある。視点を占める人物は、作者が創造した[ディストピア」を、まったく「当たり前」のものとして受容している。作者や読者が共有する価値観から「ディストピア」を望ましくないものとみなすという、多くのディストピアフィクションの主人公が行う価値判断は、本作では行われない。「ディストピア」は、ただ、語られるだけである。勿論この「ディストピア」は作者にとっても、また読者にとっても、はなはだ望ましくないものとして暗に描かれているのだが、その暗示はまったく暗示の域にとどまり、作中の虚構世界においては、当の世界に対する構造的な非難のまなざしが語られることはない。読者に提示されるのは、ただ「ディストピア」のめくるめくスペクタクルである。
 見世物的虚構。
 理念を語るのであれば、虚構の形式をとる必要性はそう大きくない。紙幅を増やすだけで非効率でさえある。
 見世物に徹する。『るん(笑)』は暗示という形で読者に「悪しき世界」を提示するぶん理念的な性格が残っているとしても、デビュー作以来の幻惑的虚構の性格を遺憾なく発揮している。

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