ユートピアについて その28

 未来に実現するかもしれない「悪しきユートピア」への不安、それをいっそう率直なかたちで表現した一書がオルダス・ハクスリーによる『すばらしい新世界』である。エピグラフとしてロシアの思想家ニコライ・ベルジャーエフの言葉を掲げる本書は、フォード紀元632年の地球、全球的な国家が誕生した未来世界を舞台にしている。
 本作の後半にハクスリーは退行への恐怖に対する懐疑的な視座を提示する。野人ジョンとの対話において未来世界の支配者ムスタファ・モンドは、ジョンの(つまり、現代の読者の)視点からはあまりにも醜く異様な姿に成り果てた未来の人類を、これはこれで合理的でより良い姿なのだと論じる。この未来世界はおよそ快楽の絶対量の増大を至上目的として構築されており、ベンサム的快楽計算の帰結としてミル的な快楽の「質」は問われない。未来世界ではいたるところでソーマと呼ばれる麻薬的なドラッグが流通し、健康な人間たちは休日は野原へ出かけていきヒッピーよろしく乱交に励んでいる。のみならず受精卵となったそのときに選別され、胎児の段階から刷り込みによる教育を受けた未来の人類は、α+からε-までの十段階に区分された自らの位置を最も幸せなものと観念して一生涯を過ごす。
 かれらは、栄養摂取と運動という魂の植物的・動物的部分のみが活発に稼働し、最上位の知性的部分が休眠したかのようである。
 なるほどそれは知性の退化でありすなわち退行かもしれない――しかし、それこそがむしろ進化とは言えないだろうか。現在の人類からは悪夢的な未来も、あるいはひとつの理想でありうるかもしれない。
 ウェルズが退行の恐怖を語るとき、その恐怖は進化と進歩を同一視する同時代の世論を含んでいた。進化evolutionとは第一義的にはphysical metamorphosis (by genetic mutation)であるから、より良くなること、改善、就中全面的な改善を含意するものではない。地上の精薄人類が地下獣人に食われる家畜として生存していようとも、遺伝子の生存戦略という観点から見ればよく成功した戦略であるから、一概に退行とも言いきれない。少なくとも家畜として根絶やしにならない程度に捕食されるので、交配と再生産は絶え間なく続けられるだろう。(メルシエ、ベラミー、モリスにハクスリーを含めた啓蒙的ユートピア小説群と比較すると、ウェルズは退行の恐怖という自らの信念を実現させるために他よりもあからさまに大幅な時間跳躍を試みている、とも見える。)

 とはいえハクスリーはこのように純粋に思弁的な反論をするのではない。彼はムスタファ・モンドと野蛮人ジョンの論争的対話の中でその論旨を披露する。
 モンドは旧世界に記された書物を引用する。若い盛りには神を一顧だにしないとしても、年老いて己の分限を知るようになってくるにつれ、一切の制限や拘束を離れた超越者=神へ向かう心が芽生えてくる――と言われる。しかし、とモンドが問う、もしも過去のように人が老いることなく常に健康でありつづけられるならば、神なるものを顧慮する必要があるだろうか? 生涯を通じて満足しつづけられることがわかっているのなら、精神的なるものを求める必要がどこにあるだろうか?
 事実、フォード紀元の未来世界はそのようになっている。
 先端的な技術によって老年まで若々しさを保たれた肉体、そして死を楽しいものとして演出することで生命の終わりに対する恐怖を感じないよう刷り込まれた精神。それらふたつを持つ未来の人類は、もはやかつてのように、年とともに老い、病を患い、そして死んでいく苦しみを味わうことはなく、生の時間はあらんかぎりの快によって埋め尽くされるために、いかなる種類の憂いを抱くいとまもない。生とは多幸感の荒波であり、死は和やかな眠りである。いずれにせよ苦しみは無く、心配することなど何もない。
 肉体という制限があるというなら、立体映像をはじめとする娯楽技術は極限的に発展しており、家にいながら世界中を旅する(かのように感覚する)ことも思いのままである(そして存在するとは知覚されることであるとすれば、欺きであれ知覚された世界中の旅の経験は確かに存在するということになる)。ベラミー的なテクノロジーのユートピアが、不快の除去・快の増進という功利主義的至上命題と接続されている。
 ハクスリーの未来人類へのまなざしは控えめに言ってもあまり好意的ではないのだが、否定しきることもできない可能性のひとつとして、万難を排して快楽の増進を図る未来世界を描き出している。科学技術が極限まで発達した無限遠点的未来を想像するかぎりで『すばらしい新世界』のフォード紀元は啓蒙のユートピアに棹差すものであり、ベラミー的な楽観主義に対してウェルズが提示した近代的疑義への反駁をハクスリーは展開している。そして実際、バーナード・マルクスのようなごく僅かの例外を生み出すことに目を瞑れば、フォード紀元の未来世界は人間の理想のひとつを形象化している。

 進歩と退行という論題については以上で打ち切るとして、次にハクスリーが用いた叙述の読者へ与える作用について検討する。
『すばらしい新世界』の未来世界は全体として異様なものであり、その叙述もほとんど一貫して諧謔的な調子に覆われている。快楽の増進を至上目的とする陽気なロンドンはどこか冗談のようであり、「乱交最高!」と歌う市民の姿はいかにも滑稽である。
 読者を慄然とさせる勘所は、この全く滑稽で異様な未来社会がきわめて真面目に現代社会と比較検討されるのみならず、ともすれば前者の方が後者よりも良いものなのではないかと真剣に論議される点にある。
 シェイクスピアを諳んじる野蛮人ジョンは、近代的な人間の持つ艱難と美徳を高らかに歌い上げる。冷徹な支配者ムスタファ・モンドは、美徳と見なされているものがその実艱難に堪えるための阿片に過ぎず、苦しみさえ消えればいかなる徳性も不要であると断ずる。
(リチャード・ドーキンスは『神は妄想である』において、ID説を提唱する人間の信仰心と、ランプの灯りに吶喊して焼け死ぬ蛾の飛行法をひきくらべることで、進化の長い過程で獲得されてきた性質が環境の変化を通じて持ち主にとって有害なものへと転じるさまを語り起こしている。百万年単位に及ぶ人類の歴史の大半において、年長者の教えに疑問を抱かずに従うことは、徒に疑問を抱いて従わないでいるよりも多くの安全や利益を人に与えた。「山のどこそこには鬼がいるから近寄ってはならない」と諭す大人は、クマの縄張りを子供に教える。勇気と無謀さを持ついくらかの子どもはこれを無視して禁じられた山に入り、かれらは熊に食い殺される可能性が高い。あるいは蛾の場合、視界に入る顕著に大きな灯りは億年単位の間つねに月以外には無かった。月を目印に飛ぶことで、蛾は一定の方向へ飛んでいくことができた。蛾類史上に突如として現れた高熱を発する大きな灯りは、誰にとっても未知のものであるために、ひとりひとりの蛾は毎度欺かれて焼け死ぬことになる。)
 優れた性質と見なされている多くのものは、未来において無用の、あるいは全く害となるものになるかもしれない。われわれがある性質を美徳とみなすのは、われわれの時代と状況が課す制限のために、われわれの目にそのように映っているのか。われわれにとっての放縦が善の完成になることもありうるのか。
 未来世界を叙述するハクスリーの語りの作用が、一見すると不合理なこの問いに迫真の調子を与える。読者は未来世界のあまりに放縦な快楽至上主義のさまを、あるいは野蛮人ジョンの振舞いとそれに対する未来人たちの反応の滑稽さを笑ってきた。未来世界の快楽的メディアの叙述は、現代の読者ならバ美肉おじさんのオージー・ボーギー on VR Chatを重ねるかもしれない。レーニナとジョンの愛情の劇(ドラマ)は、相互不理解による喜劇(コメディ)となって仕舞う。全体として喜劇的な調子で進行してきた本作が、最終盤に至って急転する。笑うべき未来世界が読者の住む現代世界よりも優れたものであると真面目に主張される。ここに驚きが生まれる。
 もしも始めから未来世界の善悪如何が真面目な問いの対象であったなら、読者は内心で身構えながらページをめくっていくために、野獣的な未来世界の良さという説が提起されたときにもそれをうけとめる余裕を持っている。ハクスリーの語りはその余裕を奪い去り、無防備なままに読者を問いに直面させるという作用を持っている。語りはひたすら読者を笑わせる、笑わせる、笑わせておいて、ヒョイと疑問の淵へ突き落す。
 諧謔の裏に真摯さが潜む、というわけではない。諧謔は一貫して諧謔だった。しかし、モンドとジョンの論争が読者に印象的なものとなるためには、裏のない諧謔によって全体の多くが占められている必要があった。諧謔と真摯さの対照が読者の横面を打ち、驚かせる。この反転驚愕効果が技巧の作用点である。

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