ユートピアについて その24

 今度寄稿するディストピア・フィクション論についての文章の叩き台、になるかもしれないもの。

仮題:Essay on the Time-disregarding Misogynic System and die Feminine Umwelt ――川野芽生「卒業の終わり」

要約、反応、仮説 Zusammenfassung, Reaktion, Hypothese

 川野芽生による作品集『無垢なる花たちのためのユートピア』の掉尾を飾る「卒業の終わり」は、超時間的なモチーフを組み合わせたミソジニーの体制と、それに拮抗しようとするソロリティの蜂起の端緒を描いている。
 本作では、書き手である「私」こと雲雀草の回想の形で、かつて雲雀草が在籍した、女ばかりの、壁に囲われた「学園」の断片的な想起と、「学園」を出てから知ることとなった外界の陰惨な経験とが、交互に語られていく。
 外界から隔絶された女生徒たちは、卒業と同時に各々が壁の外の企業へ就職していき、学校へ戻ってくることはできない。教師になることもできるが、そちらは逆に外へ出ることが決してできない。奇妙に排他的な女ばかりの箱庭を出た主人公は、外界に広がる残酷な不正を目の当たりにする。本作は全体として多分に『侍女の物語』を彷彿させる断片的な文体で語られるが、この外界の残酷でありふれた不正が雲雀草の筆で語られるのは後半部に入ってからのこととなる。
 壁の外には女だけを殺す致死的な病が蔓延している。18歳で学校を出た者は、感染後25歳までには発症し、全身から血を流して死に至る。男、人間の約半分には何ら影響のないこの病の治療法は未だ発見されておらず、研究も進んでいない。各国政府は対症療法を選択した、即ち女を外界から完全に隔離した状態で成人するまで養育、然る後に外界へ出して男と番わせるという方法である(最初、25歳の寿命までに可能な限り多く出産させて種としての存続を図らせるのかと読んでいたが、再読してみると、人口の再生産について詳しく語られた節は見つけることが出来なかった。ボカノフスキー法が採用されている可能性すらある)。人間の約半分、女に対する、非人間化と呼びうるほどの徹底した管理が行われているのが、主人公らの住む世界なのだった。
 壁の中の学校には壮年や老年の女性もいたが、外界にはまるでいない。それどころか主人公の職場をはじめ外界の女性の年齢層は25歳が上限で、いない者は既に結婚・「寿退社」しているか、さもなくば死んでいるかである。暗黙裡にいち早く結婚することが求められており、主人公にも同期の男が言い寄ってくる。男が言うに曰く、「僕は同期で一番成績が良いんですけど」……女学校では生徒は成績順に採用されると語られていたが、さにあらず、査定項目はただ見目の麗しさであり、対して男衆の方は学業の成績に則り就職先が割り振られ、見目麗しい女子にありつくという由。他の女学校では良妻賢母教育が行われているところ、主人公の母校だけは独自のカリキュラムによる独立自尊の教育を死守しているとも。
(『ねむらない樹 vol.7』のインタビューにて、高校での環境に比べた東京大学のフラタニティぶりに衝撃を受けたという旨が語られている。上に引用した主人公と同期の男との問答も、あるいは著者の実体験が書き写されているかもしれない)
 ともあれ本作は上のごときミソジニーなディストピア・フィクションである。
 このディストピアの鍵となる要素は何と言っても女のみを殺す奇病だが、これが設定した25歳という寿命は、筆者に否が応でも《クリスマスケーキ理論》、「女はクリスマスケーキ、24歳までが華、25歳は当落線上、26以降は半値未満」という1980年代の俗諺を連想させる。平均初婚年齢が男女とも30歳を越えた2023年現在ではまるで実態にそぐわずばかばかしいこうした俗諺が、陰惨な架空世界の根幹をなす要素として組み込まれていることに、いち読者としては場違いな笑いを禁じえない。なぜ作者はこのような場違いな笑いを誘う年齢設定を選んだのだろう? また、これは筆者の読み方の問題だが、筆者は本作を、21世紀現在を描いたものとして読んでいた(一連の描写は、2023年現在と同程度に情報技術が普及した時代・環境を示唆していると思われる)。そのために、数十年前の俗諺めいた設定があまりに場違いに見え、笑った。
 婦人病の治療や研究、及びそれらに関する政策決定が優位に遅いという問題は、人口に膾炙しているものとしては低用量ピルの認可が挙げられるだろう。一般に避妊薬と言われるが薬効は排卵抑制すなわち内臓器への化学的干渉であり、より多量の摂取による月経困難症や卵巣機能不全などの治療が避妊薬としての認可以前から行われていた(中用量ピル)。然るに低用量ピルは専ら妊娠の回避を目的とし風紀の紊乱を招くとして強烈な反対に直面した。1999年にようやく認可されたが、広く経口避妊薬一般の認可への議論自体は1960年代から始まっていたという。脚がけ三十余年の達成であった(文献によっては1955年開始、44年越しの解禁とも)。
 逆に男性の身体組織にのみかかわる判断の拙速ぶりについては、ちょうどこの低用量ピルの承認直前、98年7月にバイアグラの認可が申請され、99年1月に通過したことに明らかに見える。バイアグラもまた人体に化学的に干渉する薬品であり、主たる効果は血管の拡張にある。海綿体への血流増加を促すバイアグラは、本来は心臓の血管を広げるために開発されたものであり、血管拡張剤を服用している者、脳梗塞や脳出血、心筋梗塞を起こして6か月以内の者、重度の肝機能障害・低血圧の者は服用が禁じられている。全日本民医連によれば、解禁後の一年間に世界で130人(五万人に一人の割合)の死者が出ている。
 バイアグラは循環器系に作用する薬品であり時として極めて危険な結果をもたらすことがある。然るに、申請からたったの半年で認可が下りた。このスピード認可が運動にいっそうの力を与えたことも、同年のピル認可の一因とみえるが、ともかく(ほぼ)男のみによる意思決定、それに起因する女の意思決定の機会や権利の排斥といった偏りは、低用量ピルの約90倍速でのバイアグラ認可の例に見えるように、歴然と存在する。
 以上見てきたように「卒業の終わり」のディストピアは、1980年代の俗諺と、1960年代以来の議論に見えるごとき女の身体に対する法的政治的支配、1992年生まれの著者の十余年前の実体験とが、あたかも無時間的に、各々の時代の差異を無視して、混淆されたかのような姿を提示する。そこに何か居心地の悪さがある。1960年代から2020年代まで、個々の時代ごとの状況の差異を無視して、ばらばらなミソジニーをかき集めてひとつにまとめたような、不格好な混淆物のように見える。陰惨なだけに笑いが漏れるのは惜しく、足許の定まらない叙述はそこかしこで読者を白けさせはしないか。いや、筆者がいささか白けたというだけのこと。
 白ける白けないは別にして、「後半部に至って、突如として異様な混淆物が出現する」という判断がどこまで正当かもまた問われなければならない。次のような仮説を立てることもできる――本作はもとよりソロリティと女性憎蔑の無時間的アマルガムだったのであり、冒頭以下の条りからしてそれは知れる。

絆の百年 Hundert Jahre der Schwesternschaft (o, Cien Años de Sororidad)

 外界から隔絶された学園。少女ばかりの学び舎。ひとときだけの、けれど特別な関係――これらモチーフはおしなべて吉屋信子『花物語』以来の少女小説に典型的なものである。『花物語』所収の「忘れな草」「緋色の花」「福寿草」等々、(挙げればきりがないものの)多くの作品の舞台は当時の女学校であり、そこはもっぱら同世代の同性の者のみで占められた排他的閉鎖的な空間だった。少女という近代日本に新たに造られた性役割について、同性との間で過ごすことがより望ましいということも言われた。女学校では少女たちは将来の「良妻賢母」として理想的な人格を陶冶することが教えられた。しかし『花物語』にはこうした性役割への恭順に反対の意思を示す少女の姿が見られる。「ダーリヤ」では看護婦を勤める、つまりは「職業婦人」であった道子は女学校への入学を勧められるも、現在の己の職掌に誇りを持つゆえに女学校への入学を、ひいては「少女」=「将来の良妻賢母」としての教育を受けることを拒否する。最も激甚な拒絶は「浜撫子」に見られ、妾腹の子である真澄は親の進める結婚に反対して、自ら故郷の海に沈む。
『花物語』における支配的な性役割の拒絶は、逸脱、あるいは失敗の末の悲劇として語られる。しかし反抗の挫折や結末の悲劇性は、少女の性役割の拒否の末の自立という「ハッピーエンド」が当時の想像力の磁場においてあまりに荒唐無稽であったがゆえの制約であっただろうし、以下は想像になるが、書き手である吉屋も、また読者である少女たちも、人間としての自由を謳歌しえない苦しみを訴える作中の少女たちに同情し、寄り添うようなエンパシーを感じて、共感していたのではないだろうか。成長した少女たちは人間としての自由のための努力に、あるいは人間性の概念の吟味に努める。その道筋の先に「卒業の終わり」もある。
「卒業の終わり」は、書き手である「私」こと雲雀草の回想の形で、かつて自分が在籍した、女ばかりの、壁に囲われた「学園」の断片的な想起と、「学園」を出てから知ることとなった外界の陰惨な経験とを、交互に語っていく。「学園」での回想は無時間的であり、その景色もまた一様である。『無垢なる花たちのためのユートピア』と題された作品集の掉尾を飾るにふさわしく、「学園」はあたかも都市全体が計画的に設計され成員が全て同一の「時間割」に沿って動くユートピアのごとしである。上に書いたように、「女学校」という環境自体が、外界から少女を隔離して、同年代の少女のみを集めて生育させるという閉鎖性を持っているのだった。「卒業の終わり」の「学園」も、その閉鎖性において、そしてまた雲雀草たち少女にとって「楽園」であるという点において、ユートピアである。――繰り返せば、外界の陰惨さとそこからの保護壁としての「学園」という対比が後者の「楽園」性を際立たせている。
 ただし「卒業の終わり」は吉屋信子的な道具立てだけを用いて作られているのではなく、21世紀の少女小説らしく新たな要素をも付け加えている。要約すればデートDVの問題なのだが、具体的には下のようになる。
 雲雀草と、同窓生である雨椿との関係は、両面価値的なものとして回想される。本作において生まれた女は感染を防ぐためすぐに「学園」に送られるのだが(人口の再生産の詳細については語られていないが、もしかすると無菌環境下での人工妊娠・出産(人工出産?)の可能性もある――とはいえ作者が語らない以上、詮索しても仕方がない)、幼少期の雲雀草は人一倍体が小さく、その小ささ弱さ故か、雨椿を除いた周囲から執拗な攻撃を受けることになる。雨椿は同級の中でも非常に可愛らしく、背も高い子供で、彼女の働きかけもあり次第に雲雀草は周囲に馴染んでいった。はじめはあたかも雨椿が主、雲雀草が従と言った関係だったが、成長期にさしかかって雲雀草は背丈は伸び、成績も上がり、ついでに言えば後の展開を見るに容姿も端麗となり、いつしか雨椿を見下ろすようになる。それに対して雨椿は、癇癪を起し、周囲で固まって雲雀草を除け者にする、といった行動に出る。
 あるとき雨椿は週に一度のお茶会をすっぽかして雲雀草を雨の中に置き去りにする。ちょうど上に書いた村八分と同時期にそれが置き、雲雀草は「ついにこの集まりも御終いになるのか」と次の週も公園でのお茶会に出ないでいる。しかしその週には雨椿は焼き菓子を用意して彼女を待っており、雲雀草の許へ来た彼女は、自分がどれだけ丹精込めて焼き菓子を作ったか力説しながらバスケットから焼き菓子を床にぶちまける。このとき一週前に自分がお茶会をすっぽかしたことについては何一つ雨椿は語らない。
 このようなふるまいの積み重ねから、当然のこととして雲雀草の心は雨椿から離れていくようになる。「就職先の希望は同じところに出そう」と雨椿が言い、口では賛成する雲雀草は、しかし工学アカデミーという「成績優秀者」でなければ配属の適わない就職先を選び、卒業式当日に就職先が発表されることで雨椿と雲雀草の断絶は現実的なものとなる。「君は、とっくに私のことが好きじゃなくなってたんでしょ?」と雲雀草は言い、雨椿もそれを認める。
 しかし卒業後も手紙を送りつけるという形で雨椿からの関係は続く。文字にも眩暈を覚えるほどの拒絶をこらえながら手紙を開封すると、「ひどく身勝手で自己憐憫と自己弁護に満ちた文章」が並び、「誤解を解きたい、会って話したいと訴えていた」。「私が告げた訣別を、子供っぽい諍いに矮小化し、私の繊細で傷付きやすい性格にその理由を帰しながら、ものわかりよくその繊細さに理解を示し、全部わたしが悪いのと卑下してみせ、それでいて自分が何をしたかにはまるで触れずに、結局はすべてを私の誤解に還元していた」。執着に満ちた「惨めで醜悪な手紙」で「復縁を求められた」雲雀草は、「謝罪に対して赦しを与え、要求に応じようとする返信の文言」を頭に思い描いてしまい、「私はまだ、そんなにも彼女の影響下にあって、そんなにも彼女の望む通りに動こうとしている、という事実が恐ろしかった」と述懐する。
 要約すれば、継続的な精神的暴力の結果訣別された男がこれ見よがしに反省のポーズを見せつつ復縁を迫るという類型的なパターンがここでは描かれている。その支配力は強く、決意的な拒絶を一度果たしても、かつての支配力の残滓は被害者女性に長く残り、陰惨な隷属状態を継続させる。「手紙ありがとう、久し振りだね、あの時は傷付けてしまってごめんね、ううん、悪かったのは私だよ、私も君に会いたい、君がいなくてさみしいよ――そんな言葉を頭に溢れさせながら、私は床にうずくまって、必死に呼吸をしようとしていた。」雨椿は当然女性であるのだが、本作では加害/被害の二項対立が強固にジェンダー化されており、彼女の醜態はあたかも「有毒な男性性」を彷彿させる。この「彷彿させる」という独断も随分怪しいものではあるのだが、自分の「感じ」を率直に報告してここに記すこととする。
「卒業の終わり」は大正時代以来の少女小説の伝統に与して女学園を舞台としつつ、内容面では当世風らしい新味を加えもしている。また文体という観点から見ると、本作は全体に短い文節や文章を重ねていく手法をとっており、吉屋信子の息の長い修飾節が連綿と続く文体とは好対照である。全体的な断片性と、回想の形をとることによる出来事の無時間的並列という特徴に鑑みるに、『侍女の物語』の文体を大いに参考にしているように思われる。侍女の物語ならぬ雲雀草の手記である。百年前の小説に息吹をふき込まれ、半世紀前の小説の形式を借りうけ、二十一世紀に成立している。
 
 川野の作品集は冒頭表題作において節題に植物名を起用するというかたちで『花物語』へのオマージュを献げており、掉尾を飾る本作「卒業の終わり」において女学校を出たかつての少女たちの格闘を描いて吉屋ら雑誌読者=投稿執筆者の「反抗」のプロジェクトを引き継いでいる。「卒業の終わり」冒頭以下では百年前に誕生した形式を援用している。したがって、アナクロニズムは本作のはじめの数頁を読んだ時点で、既に読者の目の前にある。
 少女小説の系譜上の女学校を語り起こす川野は、作品の一半をつうじて、読者に百余年前の少女小説を想起させる。同作の一半はソロリティへのオマージュであり、もう一半はミソジニーでのコラージュであった。
「卒業の終わり」は、一世紀にわたる近現代日本列島(とりわけ本州、京浜だろうか)の女性の環世界的経験を拾い集め、繋ぎ合わせた、傷と絆の百年、ミソジニーとソロリティのまだらの象嵌である。
 したがって川野は次のように言いうる。「ばらばらだなんて知れたこと。そもそもの初めから終わりまで、幼少の少女と成長した少女の生と刻苦の、百年の懸隔をぶち抜き繋げて、まざまざと見せていたというのに、それを見逃した粗相な読者が白けるも笑うもありはしまい」
 
 また、フィクションの読み方の問題として次のことが言える。死病の刻限から《クリスマスケーキ理論》を想起するのはあくまで読む側の私の想像力による。現実世界のある時期の俗諺は、独特の死病の蔓延した「卒業の終わり」の作中世界のいかなる年代ともかかわらない。連想するのは連想する側の読者の勝手だが、だからといって現実世界とは異なる独特の歴史を持つ作中世界の事柄と、現実の読者の連想内容を紐付けられるかは、また別の話である。

環世界について über Feminine und Mindere Umwelt

 もう一点……白ける読者である私と、著者である川野の環世界の相違は、構成上の判断に影響を及ぼしていないか。
「卒業の終わり」で描かれるディストピアは、次のような要素から構成されている。
 1980年代に流布した、女性の結婚適齢期を(半ば揶揄するように)語る言説。
 1960年代(文献によっては50年代)以来の、内臓器への化学的調整をめぐる対立。
 2010年前後にも色濃い最高学府のフラタニティ的気風が帰結する女学生への排他的態度。
 以上はこれまでの節に書いたとおり。これらの事柄は女性の環世界die feminine Umwelt、女性のみがその中で生き、男性は決してそこで生きることがありえない世界(die Umwelt, in der nur Frauen leben und Männer nie leben können)にかかわると言うことができる。
 現存在は日常的に世界に親しんで現実存在しており、日用の道具に代表される指示と目的の機能的連関の中で生きている。言い換えれば、現実に生きている人間は、自分が住んでいる場所、「世界」を対象として観察しながら生きているわけではなくそこに馴染んでいる。馴染んでいるとはここでは次のようなことを意味する。人間は自ら使う道具に囲まれて生きており、その道具は個々が持つ用途にもとづいて結び付けられており、そして用途による道具相互の繋がりを人間はそれと意識することなく把握している。個人の部屋を見れば、床は机と椅子など家具を置くためにあり、机と椅子は例えばパソコンを使うためにあり、パソコンは文書・映像を作成・送受信したり遠隔地にいる人と話すためにある、等々。
 扱う道具の違いによって、人間が住まう「世界」は異なった顔を見せることになる。林業従事者の環世界と材料工学者の環世界は異なる。林業従事者が柔らかい、硬いと称する個々の木の違いを、材料工学者は許容応力の大小という木質の相違として認識する。しばしば後者によって前者は曖昧な、不完全な、誤ったものとして否定される。しかし現実に存在しているという点では林業従事者と材料工学者の環世界は等しい地位を持つ。のみならず前者の環世界において、前者の認識は後者のそれに優越する。構造設計において許容応力の大小が重要であるとしても、生木を切り倒すため斧やチェーンソーを扱うにあたり重要なのは刃を通して手や腕に伝わる感触であり、その硬い柔らかいの違いである。必要なのは数値の計算ではなく一々の衝撃による削れ具合の調整と、次の力加減の判断、それに基づく手首や腕の動きの決定、これらである。厳密な計算は何の役にも立たず、考慮されない。手元に返ってくる感覚こそが真実であり、真正な判断基準となる。
 ある環世界は別の環世界に対して必然的に優越するのではない。どちらの環世界も現実に存在し、双方の環世界に生きる現存在の陳述はどちらも真実だ。それらはある環世界に紐付けられているかぎりで限定された特殊な真実である。無限定的な真実を名乗る者はそれだけの外的な力を有している。例えば男性の環世界は女性の環世界とは異なる。したがって前者は後者における経験をただ伝聞でのみ知る(逆も然り)。直接的な経験を欠くために、前者が多数を占める場においては、後者の訴えがしばしば緊急性重要性を欠いたものと見做される。多数性という外的な要因がいち環世界の真実性を毀損する。この外的な力によって、多数者の共有する環世界において経験されない事柄、すなわち少数者の環世界における経験は、しばしば真実性を否定されることとなるのだが、実存するかぎりその真実性は決して変わらない。
 少数者が自らの環世界における経験の真実を率直に報告することで、同時代の文芸に「新味を与える」こととなる例は多くある。近代文学史中最大のものは中南米の魔術的リアリズムで、中南米人の環世界における経験の率直な報告が、西欧人の環世界においては奇異なものと映るために、写実主義が魔術的であると言われる。韓国の『82年生まれ、キム・ジヨン』は韓国女性の環世界的経験の率直な報告と、同国男性の環世界による無理解・否定を克明に描いている。「卒業のおわり」も、あるいはそのうちの一つと見ることはできる。
「超時間的ミソジニー体系」の不恰好な混淆に白けると書いた。しかし、川野が生きている女性的環世界feminine Umweltは、「卒業の終わり」の作品世界を構成する一連の事柄を歴史的事実としてのみ知っている私の男性的環世界maskuline Umweltとは異なる。あるいは、彼女の環世界においては、又広く女性的環世界一般においては、一連の構成要素は依然として組み込まれており、「超時間的」ではない可能性は、十分に考えられる。そうだとすれば、そこには「現在的なミソジニーの体系」があり、その率直な報告は真実である。

インセル的環世界の経験的諸概念 die Empirische Begriffe der Incelsumwelt

 およそ現実認識の表白という観点から見れば、いささか露悪的に過ぎるきらいがあるとはいえ、《ダークウェブ》におけるインセルダムのそれほど率直なものは珍しい。面妖な術語と落書きめいた戯画を友とし、一種異様な世界認識をインターネットミームに乗せて拡散しているインセルダムは、道徳的問題を多く抱え、テロリズムの潜勢的温床だとしても、構成員のほとんどはウェブ上の掲示板でくだをまくだけの無害な存在である。BBCの取材に応えた青年曰く、インセルたちは「一日中掲示板に居座り、自分がどれほど悲惨かを語り、それについてのポッドキャストを投稿している」。インセルの多くが非活動的で、通り魔的殺人を犯すことも自殺することもできないほど積極的な行動力に欠けるために、エリオット・ロジャーやアレク・ミナシアンはインセルダムにおいて崇拝される。《ダークウェブ》に潜入して彼らの言説の道徳的悪性を糾弾するのは、石の下の虫を眺めるのに似ている。
 補注……尤も、通り魔的犯罪や憎悪煽動・組織的虐殺を防ぐためには、実際に事が起こってから対応するのではなく、通り魔やヘイトスピーチの前段階の比較的軽微な差別的言動から廃絶する必要がある(梁英聖『日本型ヘイトスピーチとは何か』参照)。虫歯の痛みや損傷から歯を守るためには、実際に虫歯ができてから歯医者に行くのではなく、毎日歯を磨くとともに、定期的に歯医者に行き治療を受ける必要がある。必要なのは対症療法ではなく根治療法である。そうした観点からいえば、ダークウェブに潜入してこれを糾弾するかのじょらの行動は理にかなっている。
 チャド、ステイシー、ブラックピル……、一連のミームの語義については適切な文献に任せるとして、かれらの世界認識は、どのような条件、限定を受けるかぎりにおいて不当であるか、と問うことができる。
 環世界的経験の率直な報告の真実性という命題は、実践的要請ではなく、ただたんに純粋な理論的なものである。それは、道徳的に認められるべき言明は真実でなければならず又現に真実であるという、社会的善と論理的真の一致を主張するものではない。この命題はあらゆる人間の環世界的経験の真実性を保証する。この保証は、その認識や陳述内容がどれほど奇妙なものであろうとも、妨げられない。聞く者の環世界が、語る者の環世界を異質な・不可解なものだといくら考えようとも、その語る者の環世界の現実存在及び当の環世界における真実性までも否定することはできず、両者は並立する。自らの環世界における経験が唯一の正当な「世界」であり、他の環世界における経験は虚偽であると判断するとき(低用量ピル認可への抵抗における「風紀の紊乱」説を見よ)、そこに不当性が生じる。それは予断である。
 チャド、ステイシー、ブラックピル、そういった世界観をインセルダムが持つことを誰も妨げてはならないが、同時にインセルダムもまた、一連の環世界的経験・陳述を、唯一の・正当な・真正のそれとして他の環世界に服従を求めるとき、まずそれが独断であるかぎりで不当とみなされる。エリオット・ロジャーやアレク・ミナシアンは、彼らが、物理的な抹殺という手段を用いて、自らの環世界的経験とそこから作り上げられた善の構想に他人を強制的に服従せしめようとした点において、独断と不当の評価を与えられることとなる。
 あるいはインセルダムの世界認識は本当に真実かもしれない、言い換えれば、インセルダムの環世界的経験は他の環世界においても妥当する経験であるかもしれない。真偽如何はまた別の場所で、歴史によって判断される。

「いかにして男性的環世界の経験を報告するか」”Wie berichtet Mann Erfahrungen der maskulinen Umwelt?”

 あるいはインセルダムでなくてもよい。男性の環世界的経験というものがある。男性、というとあまりに大雑把であり、これは様々に細分化できる。マイノリティとして様々なスティグマを負い、他者化・周縁化された男性の環世界があり、また「高い稼得能力」「異性の獲得」「積極的性格」「清潔感ある風貌」「育児への参加」等々、「男らしさ」の一連の規範を満たす男性の環世界がある。また、何らマイノリティではなく、彼らが持たない数々の特権を享受しているにもかかわらず、規範的男性が満たす一連の規範を満たさない男性の環世界的経験がある。
 第一のものは人種、セクシュアリティ、障害、その他諸々、何らかのマイノリティとして自らの環世界的経験を語って連帯し、「普通の男」を糾弾する。「さよなら、男社会」。第二のものは一々語るまでもなく社会に権力を示し、DVやセク・ハラや権力勾配に基づくレイプに勤しみ、往々にして罰されない。あるいは神経や性における多元性を認める方向へ価値観をアップデートさせ、異性愛制度の下で人口を再生産し、イクメンとして大いに称賛される。第三の、異常abnormalではないが正常・普通normalというほどの権勢を現に持っているわけでもない、より少なく普通な男性less-normal (less-normative) men。これが恐らくは所謂「男性」のボリュームゾーンでもあり、インセルダムの主たる構成員でもあるのだろう。これはスラヴォイ・ジジェク飛んで杉田俊介には諸運動の「残余」と呼ばれるきりで、「残余」、余り物、残りかすというその呼称は、政治上の支配的地位を得ることのなかった過去の多くの人間=男を呼びならわすに相応しいものではあるとしても、しかし彼らの独自の環世界的経験もまた、女性をはじめとする「マイノリティ」の環世界的経験と同じく現実に存在する。
 このような男性の環世界的経験を率直に語るために、どのような体系が求められるだろうか。台頭しつつあるメンズスタディーズはどうだろう。加害と被害、弱者と強者、そして特権……、現代の男性研究が用いる一連の術語の源泉は、もっぱら一連のマイノリティスタディーズ、すなわちマイノリティの環世界的経験を源泉とする思考体系である。その体系はマイノリティの環世界的経験や苦難を率直に言葉にしたものであり、マジョリティはそこから異質な他者の苦痛のありさまを知り、政治的連帯への道を見出すことができる。しかしそれら術語が意味するところが、マジョリティの環世界的経験の地平において実存的に感得されることは、決してない。定義上そうなのだ。ふたつの環世界は異なるものであり、両者の間にある断絶は乗り越えることができないからである。マジョリティは、マイノリティについて語ろうとするなら、その経験を率直に表現したマイノリティスタディーズの術語を用いることで、陳述をより良いものにできるだろう。しかし、マジョリティ自らについて語る場合に同じ術語を用いるならば、おのずから空理空論、決して具体的に理解することのない体系を用いて自らの環世界という対象を語ることになる。
 過去の男性による「女性論」の最初の誤りは、内容以前の形式の問題として、それを唯一の排他的な真理として提示した点にあるのではないか、これに反対したウーマン・リベレーションの運動もまた排他的真理の観念を保ったがために現代にいたるまで無用の反発を招いてきてはいないか。……現実に存在する男性的環世界における経験や、男性的環世界という地平からの女性の「見え」を、男性的環世界におけるそれとして限定的に語るためには、独自の体系を求める必要がある。

仮の結論部 ein vorläufiger Abschluss für die “weniger normale Männer”

 数々の特権の存在が語られる。ひとつの比喩として、集合住宅のそれが挙げられる。ともあれ、このような語り口はいずれも比喩、修辞であり、迂遠なものである。
 思うに、少数派研究において「特権」と呼ばれる諸々の要素は、多数派の環世界、地平、から見たとき、労苦の不在や欠如として現れる。
 痴漢に注意、夜道を一人で歩かない、云々と、女性に対して言われ、防犯のためとして自らの下着を外に干さない、男物の下着と一緒に干す、オートロックの集合住宅を借りる(ために出費が増える)、等々の「防犯対策」が教授される。多少とも注意を払い、工夫を凝らさなければならない。身体における女性性(セクス)、我々の住む社会がそこに与える意味(ジェンダー)――総括して「セクシュアリティ」――が、かのじょをしてそのようになさしめる。
 男性であれば、このような面倒からはまったく自由である。あたかも特別の待遇を認められた身分であるかのように一方が払う労苦や出費が免除されている。特権と言ったところで、別にこれと言って利益があるわけではないのだが、しかし不利益から免れていることだけは確実である。ここに、不利益の、労苦の欠如としての「特権」が認識される。男性の環世界的経験において、マイノリティスタディーズが言うところの「特権」は、労苦の不在である。それは少数者の、女性の環世界的経験においては誤った言明だとしても、男性の環世界的経験においては、それ以外に言いようがない真正の表現にほかならない。両者は必ずしも調和せず、対立しさえする。どちらの言明が「より真実である」かは、環世界の外部の力によって決められる。
 
 Less-normal(less-normative) menであり、インセルダムに共感することもできない者(インセルダムに共感するならインセルダムに参加していればいいのです)、彼らはいかにして自らの環世界的経験を率直に語ることができるだろうか? 彼らの環世界的経験の率直な表現とはどのようなものであるだろうか? そしてまた、それを「卒業の終わり」において川野がしたように、一個の虚構として作り上げるとすれば、どのようなものになるだろうか? 私はこれを求める。私の環世界的経験に、率直な言葉を与えることを、私は望む。


参考文献
川野芽生「卒業の終わり」『無垢なる花たちのためのユートピア』東京創元社
書肆侃々房『短歌ムック ねむらない樹 vol. 7』
富士製薬工業webサイト「経口避妊薬(OC/ピル)について Q&A」2023年2月19日閲覧 
https://www.fujipharma.jp/patients/contraception/about/#:~:text=%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%B2%E3%83%B3%EF%BC%88%E5%8D%B5%E8%83%9E%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%83%B3%EF%BC%89%E3%81%A8%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B2%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AD%E3%83%B3,%E5%8A%B9%E6%9E%9C%E3%81%8C%E6%9C%9F%E5%BE%85%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
全日本民医連「くすりの話 28 バイアグラ発売とピル解禁」1999年5月1日、2023年2月19日閲覧 https://www.min-iren.gr.jp/?p=26732
李啓充「「性の乱れ」を防ぐことに躍起となる権力者たちの習性(続 アメリカ医療の光と影 88回」」医学会新聞 2023年2月19日閲覧
https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/old/old_article/n2006dir/n2691dir/n2691_05.htm
吉屋信子『花物語 上下』河出書房新社
マルティン・ハイデッガー『存在と時間 上』ちくま学芸文庫
タリア・ラヴィン『地獄への潜入 白人至上主義者たちのダークウェブ・カルチャー』
ユリア・エブナー『ゴーイング・ダーク 12の過激組織潜入ルポ』
梁英聖『日本型ヘイトスピーチとは何か:社会を破壊するレイシズムの登場』2016年、影書房
Jonathan Griffin, “Incels: Inside a dark world of online hate”, 13 August 2021, BBC. 2023年2月9日閲覧 https://www.bbc.com/news/blogs-trending-44053828
杉田俊介『男がつらい!』2022年、
レベッカ・ソルニット、訳『説教したがる男たち』2018年、左右社

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